<1993年 ぼくはこんな記事をつくってしまった
1993年10月号
「合従連衡」のパワーポリティックス
狩野直禎(京都女子大学教授)・佐々淳行(評論家)
第1特集対談・細川ヤマタノオロチ政権を中国の春秋戦国時代に見立てた無理矢理企画。P編に異動早々、右も左もわからないのに「佐々さんをつかまえてくれ」と編集長に言われて、渋々依頼。佐々先生は私の恩人であり、春秋戦国にあまり詳しくないにも拘わらず快く引き受けてくださった。感謝。しかし、私だって春秋戦国のことなんかさっぱりわからん。にわか勉強する。その他この号では大手町・丸の内のランチの取材や、霍見芳浩先生の連載などをやらされる。
11月号
辞めてしまえ、「化粧品安売り」の敵厚生省幹部
宮路年雄(城南電機社長)
<コラム・まだ宮路社長は有名になる前で、自分の写真が載ったFORTUNEを出してきて「外国の雑誌に載った」と喜んでいた。また、警官の服を出してきたので「これは何ですか?」とたずねると、「毎年天皇陛下が巡幸するときに、ボランティアで警備に参加するときに着るためのもの」ということだ。民間人が警官の服を持っていては危ないが、彼は既に20回以上もボランティア警備に参加しているので、信用されているようだ。家出青少年の補導などにもまめに協力しているらしい。このとき社長は「ボクは本を出しても印税もらわなんいだ」と言っていたので、「ぜひうちから一冊出しましょう」と持ちかけ、94年5月に『人生はオモロイ!』を出版。まったく売れなかった。彼は98年5月9日に亡くなった。彼は有名人ではあったがあまり理解されることの少なかった人だと思うので、彼の名誉のために一言申し添えると、彼は決してただの銭ゲバではない。もちろん金は好きだったが。以下のような彼の性向は、多くは戦前の教育の所産であったと思う。彼は利潤動機に基づいて行動していたが、しかし社会全体の利益を見失うことはなかった。他人に対して、常に温かい思いやりを注いだ。彼は彼のような社会性を持たない敵と戦った。それは最初は欠陥商品を売りつけて利益を壟断する家電メーカーであり、競争制限してはばからぬ化粧品メーカーであり、それが不当に商品価格を吊り上げる仕組みをつくり、天下りしてその余録でぬくぬくと暮らす役所の幹部へと向かっていった。彼は自分の考えを概念化して話すことはできなかったが、彼の行動は正義感に裏付けられていたと思う。私が彼から学んだことは数多い。私は彼は、同時代を生きた日本人として尊敬するに足る人物だと思っている。
見破ったり、これぞ細川政権の正体!
浜田幸一
<コラム・早朝、一人でパレロワイヤル永田町にハマコーを訪ねる。ハマコーは議員を引退したばかりで、政治家との対談を連載しないかと持ちかけてきたが当時の編集長は彼の提案を断った。その後、彼が出した『日本をダメにした12人の政治家』は大ベストセラーとなる。
「私学優位」が終わり真価が試される時
岡野加穂留(明治大学学長)
記事・この前月、私が幹事をしている勉強会にお越しいただいた明治大学学長の岡野先生を阿部さんと学長室に訪ねる。彼はクエーカー教徒である。
12月号
地場産業は生き残れるか
久保田正志(ジャーナリスト)
円高になるとお約束の燕三条洋食器産地取材。タクシーだけを移動手段として、一日6件取材の偉業を達成する。この記録は、未だに破れていない。
日本は「一〇兆円減税」を実行せよ
フレッド・バーグステン
講演・クリントンの為替政策に影響していると噂されるIEE代表の来日に、円高に色めき立つ企業の担当者が殺到。講演内容を起こして掲載する。
「やる気」OLはアメリカを目指す
佐々木 かをり(ユニカル インターナショナル社長)
記事・海外OLモノをやれという。友人の佐々木さんに相談したら、たまたま翌日からニューヨークに行って日本人女性たちに会ってくるというので、取材してきてもらう。