運営者 アメリカ人は、ひとりで内省的にものを考える時間が必要なのでしょうか?
小西 人によるでしょうし、もちろん明確なことはわかりません。しかし、わたし自身もどちらかというと個人主義的な人間で、内省のプロセスがなくてはならないタイプの人間なのですが、そういう自分がアメリカ人の彼らと付き合っている中では、そういう自分の在り方が、ごく当たり前のことであるかのような感覚があった。ですから、彼らも私と近いものをもっているようにも感じています。
逆に集団的に共有されたビリーフで生きている人であれば、みずから「本当にそれが正しいのか」と問い直す作業をせずに、「他の人に比べてちゃんと自分が集団的ビリーフを共有しているかどうか」を確認さえしておけば、「少なくとも社会から外れることもなく、それなりに生きていけるだろう」と考えているのでしょう。
運営者 三島由紀夫は短編の中でシニカルに、(日本において)「幸福というのは他人と同じであることである」と書いてます。「人と同じであるということが、良いことである」という価値観です。
小西 それと関連すると思うのですが、私がアメリカから帰ってきて感じたのは、日本人が、いわば「世間体教」ともいうべきものを信じている、ということです。「周りと自分が一致しているかどうか」を絶えず確認しているように思います。何か非常に強い信念をみんなが共有している。それを日本人が自覚しているかどうかはわからないのですが。
運営者 それをみんなが自覚していないところがポイントなんです(笑)。
自覚してると窮屈に思うはずなのですが、無自覚だから「自分は自由だ」と思い込めるんです。
小西 先ほども言いましたけど、それに比べると、アメリカ人はもっとバラバラですね。
運営者 彼らが教会に行って祈っているときは、自分と神との一対一の関係を確認してるわけですよね。何か神様と約束して、約束を破ったり、悪いことをしたら、死んだ後で裁かれるわけであって。
日本人は「自分は集団の中で守られている」と信じているので、「自分と神様との関係性で何かを考える」という習慣はないんです。
小西 個人主義的な人は、神様との関係も含め、自分自身で見つけていくしかない。
運営者 彼らは「オー・マイガッ!」っていうじゃないですか。あれは信じられないと思いますよ(笑)。
日本人にはない感覚です。日本人は、何か問題が起きた場合には、「自分の属している集団に対する脅威であるかどうか」という価値判断をするんじゃないのかな。
小西 そういう時に日本では「大変」というじゃないですか。大変というのは大きく変化するということです。
日常の普段のリズムが変わってしまうのはよくないことなんです。
運営者 日本では四季が巡ってこないと米ができないから困りますもんね(笑)。
ですからそういう文化や宗教の認識がベースとしてあるんでしょう。