運営者 そうすると、禅の立場からチャプレンの仕事を説明するとなると、どういう言い方ができるんですか?
小西 禅は、まず「本当の自分」が存在するということを前提にしていると思います。本当の自分に目覚めることをひとつの目標としていて、それが「悟り」といわれるものです。
すべての人が悟りに目覚めて、そうした人々が構成する社会をつくるのが理想です。
そのためにまず「己事究明」、己のことを明らかにする。出家としてお寺で修業したり、あるいは在家として俗世間の中で、自分を掘り下げていくことによって目覚めていくことが求められます。ですからどちらかというと禅の考え方では、あくまで自分で突き詰めていくことが第一義的であって、他者からケアされるという部分があまりありません。
運営者 日本にある、「道」と名がつくものはだいたいそれですよね。
人から教わるのではなくて自分自身で身につけていく。まさに求道です。
だいたい禅の公案ぐらい不親切なものは世の中にありませんから(笑)。
小西 実はそのことについて、カリフォルニアにいる時に、バークレー禅センターのアメリカ人の老師と会話したことがあるのですが、その方とは「禅では『悟りはあくまでも個人の問題』とする人も少なくないが、しかしだからといってそうしたケアをしないでいいということにはならない」という意見で一致しました。
私は西田幾多郎の弟子の久松真一氏が作った禅の協会に入っているのですが、久松氏が強調しているのは、「仏教では本来、慈悲も不可欠の要素として含んでいるのだが、禅ではあまりにも悟りにフォーカスが当たり過ぎている」と。
確かに本当に悟ったところから、本物の慈悲が出てくるのであるならば、悟りを重視するのは当然のことなのですが、しかしそれが慈悲、いわば社会の実践の軽視につながってはならない。特に大乗仏教には「悟りも大切だが、実践も大切だ」という立場はあると思います。そのひとつの具体的な形として、スピリチュアルケアがあるのではないかと思うんです。
運営者 うーん、なるほどね。そこに注目しますか。
小西 キリスト教にもいろいろな立場がありますが、基本的には、愛をもっているのは神様なんです。絶対他者である神のみが本当の意味での愛を行じることができる。
それに対して仏教では、愛、仏教的には「慈悲」というべきでしょうが、それをその人自身が行じることができる、という面がある。これは先ほどの久松氏が主張していることです。
運営者 禅においては、悟りを開くのは究極の目標なんですか?
小西 仏教には、仏道が「往相」と「還相」なる二つのフェーズから成り立つとの考え方があります。「往相」というのは悟りまで至るフェーズ、「還相」というのは社会で、慈悲を実践していくフェーズのことです。
それからすると、悟りというのはある意味では、還相を実践するための準備が整った段階にすぎない、という考え方も可能かと思います。
還相をやらないと、悟りのためだけに生まれてきたということになってしまいますから。