小西 パターンというのはなかなか難しいのですが、ビリーフの修正に関して申し上げると、実際には、画期的に新しいビリーフを患者さんが見つけるとか、再構築するということよりは、むしろ「こういう考え方もあるよね」という小さな気づきが積み重ねられていく、という感じです。
また「楽になる」というよりも、患者さん自身が日々ものすごく大変な状況に対して、自分と向き合う、現実と向き合う、残された時間と向き合う、その向き合い方を、その時々で見出していくという感じに近いですね。
運営者 ビリーフを患者さん自身が再構築したようなケースもあるんですか?
小西 たとえば、これはアメリカでのことですけれど、肺がんを告知された五十代の女性がいて、「自分がこうなったのはタバコを吸ってきたことに対する神様の罰だ」と取り乱していらしたのです。そうした中、ご自分のつらい気持ちをお話していかれた。そしてその会話の最後に、一緒にお祈りすることになりました。キリスト教の患者さんからは、会話の最後に「お祈りをしてください」と頼まれることが多いです。
運営者 わたしのために神様に祈ってくださいということですね。
小西 そうです。私がアメリカでやっていたお祈りにはいくつかの種類があって、たとえば「アッシジの聖フランシスコの祈り」と呼ばれる祈りのような定型的なものをご一緒に読む形での祈りや、私が「サイレント・プレイヤー」と呼んでいたもの、それは私が相手の方の手を握り、沈黙のままで瞑想するように祈る祈り方などを実践していました。もう一つは、相手の話を伺っていく中で、相手の現状認識や希望をまとめるような形の祈りを、チャプレンが即席で作り上げるというものです。
運営者 オーダーメードのお祈りか、定型のお祈りかということですね。
小西 そうです。先ほどの患者さんの時は、何となく直観で、先ほどの「聖フランシスコの祈り」を一緒に読むことを提案したのですが、そうしたらその方がとてもびっくりされて、「実は2年前にアッシジに行ってきたばかりだ」というんです。
偶然の驚きのあまり、今まで「神様に罰を与えられた」と悩んでいたのが吹っ飛んでしまったみたいで落ち着きを取り戻されました。これなどはいわば、「神様は悪いことをすると罰を与える存在だ」というビリーフを持っていたのが、そういう偶然の出来事を経験することを通じて、「神様は罰を与えるなどという小さな存在ではなく、もっと人知を超えた大きな存在なのだ」というビリーフに再構築されたケースと言えるかもしれません。数日後訪問した時も落ち着いていられ、「聖書も読んでみようかなと思う」とおっしゃっていました。
運営者 まあ、今の話を聞いて私が思うのは、「神学というのは宗教に乗った上で何かをする」ということであるのならば、キリスト教という宗教は随分酷なものだなということです。
「お前生まれた瞬間に悪いことしてるんだから、教会のいうことを聞かなかったら地獄に落ちるんだぞ」と信じ込んでいるからその人は苦しんでいただけじゃないですか。
彼女が小西さんからサンフランチェスコの祈りを聞いたのは、神様の思し召しなどではなくて、単なる偶然でしかありません。しかしながら彼女はキリスト教の枠の中で、自らの心の平安を見いだすしかないわけです。
ですから、チャプレンは、宗教の上に立ってその人の心をサポートするということなのであれば、そのよって立っている基盤が、なんだか頼りないなという気がしないでもないです。
キリスト教は寛容性のない宗教だと思いますが、信じている人はその中でもビリーフを作って価値観をつくり上げてきているわけだから、そのいくつかを変えることによって、その人に安らぎを与えてあげることもできれば、その人の生きる目標を自分自身で発見してもらうこともできるということなんでしょうね。
それは「自己決定権」という考え方からいけば、方法として納得のいくところです。