運営者 ところでですねえ、では人間は自分の生き方を自分で主体的かつ自覚的に決めているのかという問題があると思うんです。
私が最初に勤めたのは、プレジデント社という雑誌社だったんです。当時は日本で一番売れている経済雑誌でした。
なおかつその中では、仏教や戦国時代の話などさまざまなテーマを取り上げていて、「何でも深く取り上げることができる雑誌だな」というイメージを持っていました。
それで役員面接のときに、役員から「この会社に入ったらいったい何をやりたいのかね?」と尋ねられて、その時に、私は「人生いかに生くべきかということを追求していきたいと思っています」と答えたんです。そうしたら、並んでいる役員のうちの一人が、鼻でフンと笑ったんです。それに気がついているのに、その会社に入らなければよかったんです。あれが私の人生最大の失敗だったと思いますね(笑)。映画会社に行っておけばよかった。
つまり、その役員は、「人生いかに生くべきかなどということを考えるのは無駄である」とか、「甘っちょろいことである」という認識をもっているわけです。日本ではそんなことを考えずとも、強固な集団主義があって、集団アイデンティティーを自動的に認識できる文化があるのだから、その中に入れば余計なことを考えなくてもいいんだ。「むしろ勉強なんかしても無駄なんだぞ」と飲み屋で説教してる上司がいましたからね。
そうするとね、人間として、個人個人が、自分の生き方を考えるということは、重要なことなんでしょうか?
欠くべからざることなんでしょうか?
だとしたらそれはなぜなんでしょうか?
それを小西さんに伺いたいんです。
小西 最近はだんだん、社会が個を尊重するように変わってきているように感じています。確かに日本では集団的なビリーフを共有している側面が強いと思いますが、より個人主義化してますから、一人ひとりが自分の生き方を考えないといけない流れがあると思います。
もう一つは、ここは個人の人間観次第だと思うのですが、「何のために人はこの世に生まれてきて、存在して、生きて死んでいくのか」ということを考えた場合、その一つとして、少々神学的な表現になってしまいますが、私は「万能の神がいて、彼は完全な存在なのに、そこにあえて人間という不完全な存在を作って、それぞれの個人に意識を持たせ、その個人を通じて、ある種の自己表現をしているのだ」という考え方が可能だと思うのです。その考え方に基づくならば、人は単に他者から与えられたビリーフで自動的に生きていくのではなく、一人ひとりの個人が自分の感性に基づいて、自分の頭で考えて自分の人生を模索しつつ生きていくことが大切なのではないかと思うんです。
運営者 実存主義的な人間観ですが、小西さんのお話に重みがあるのは、人間の最期の瞬間に近いところの人たちとたくさん接触されてきて、そのうえで小西さんが今おっしゃったご認識と矛盾がないのであるならば、それが正しいのではないのかと考えられるからです。
末期の人たちは自分の人生についてと、その先を生きることについて、どのような認識を持つものでしょうか? どう振り返るものでしょうか?