小西 全体的な傾向として、人が死を迎える前には社会的なものとか、地位とか、自分がこれまで何をしてきたかといったことはすべてとっぱらって、最期の時間を「素の自分で過ごしたい」と言う人が多い、というのが私の印象です。
運営者 そうなんですか!
小西 そうすると、社会的なことはどうでもよくて、ひとりの人間として最期の時に会いたいのは、本当に素の自分をさらけ出すことができるような人だと思います。
運営者 友人とか幼なじみとかですかね。素の自分をさらけ出すというのはどういう感じのことだと考えればいいでしょうか?
小西 私のイメージですが、人は生まれたときには、いわば社会的な衣を何も着ていなくて、だんだん成長して大人になっていくにしたがっていろんな知識を身につけて、いわばどんどん服を着込んでいき、社会人として生きていくのですが、最期の時は、それを全部脱ぎ捨てて、素の自分になりたくなるんだと思います。
運営者 じゃあ今まで一体何をやってきたんですかねぇ??
小西 そこがとても考えさせられるところです。人が社会的に、生きていくためには生活を成り立たせるためにいろいろなものを着なければならないんだと思います。でも最後になって、今まで生きてきたものを全部脱ぎ捨てたくなるのであれば・・・。
運営者 必要以上に厚着をさせようとする文化的な圧力はありますよね。それで厚着をして資産をため込んだり、地位を追い求めようと、そっちのほうが自己目的化する人のほうが多いじゃないですか。
だけど最期の場面で素に戻るのであれば、過剰な努力はする必要がないじゃないですか。
小西 そういう過剰な努力を後悔する人はいますよ。「もっと違うことをやってくればよかった」とか。
医師をしていたある患者さんは、「自分は本当は高校の物理の先生になりたかったんだけれど、社会的な地位を考えて医師になった」と。でも彼の甥っ子は高校の物理の先生になったんだそうです。その甥っ子を見て、「多少給料は安いかもしれないけれど高校の先生になっていればもっと満足ができたかもしれない」といったことをおっしゃった方もいらっしゃいました。
運営者 なんか「市民ケーン」みたいな話になってきましたね。
小西 その方は宗教に関心を持たれ、チャプレンとしての私に、各宗教が死についてどのように言っているのかを知りたがられたので、いくつかご紹介しました。その中で「浄土真宗のある方が、死ぬということは存在の故郷に戻っていくようなものだ」という考え方をご紹介したのですが、その患者さんはその言葉をとても気に入られた様子で、最期の最後にも、ご家族にもそのことを語られていたようです。