運営者 仏教の智慧ですねえ。
しかしそれ故に日本では、「個人が主体的に生きるべし」ということを人々が突きつけられない文化なわけです。だから自分の生き方というのは、スピリチュアルクライシスが来るまでほとんど自覚されないでしょう。
それではまずい。では普段からそういうことを考えておいた方がよいのでしょうか。それも面倒な感じがしますが。
小西 日本がもともと集団的な社会として共有しているビリーフが多いとして、それでうまくいっている限りはそれで問題ないとも言えるかと思います。しかしそのビリーフでは乗り越えていけないような状況が直面したり、あるいはその個人がそのビリーフを信じられなくなったりした場合には、個人個人が自分で生き方を見出していくしかないと思います。
運営者 うーん。この国の人たちの純粋な集団主義の頂点だった瞬間だと私が思うのは、1945年8月15日の朝に、集団主義に凝り固まっていた陸軍の連中は天皇を奉じてクーデターをやることで、最終本土決戦に持ち込んで日本人全員で集団心中しようとしていたのですが、阿南惟幾陸軍大臣はそれを押しとどめてクーデターをあきらめさせた後、切腹するんです。
日本の集団主義が最も結晶化した時というのがこの日本のいちばん長い日だったと思います。
日本文化は、そういった集団主義を連綿と引き継いでいると思います。そして時代は21世紀になりましたが、あまり変わってるようには見えません。
その中で、個人個人として生きていこうとする人間は、相変わらずとっても生きにくいです。
むしろ「人生いかに生くべきか」などということを、個別に考えない方が快適に暮らせる社会なんです。
小西 でも、集団として今の時代を生き抜くためのビリーフが継続して与えられなくなってきてるような気もしますね。
運営者 それはおもしろいご指摘ですね!
小西 これまでは社会から与えられてきたそうしたビリーフが与えられなくなっているとすると、個人個人が産み出さざるをえなくなるのではないでしょうか。
運営者 例えば愛知県は管理教育のメッカで、軍隊的教育をやっていたわけで、最近はどう変わっているのかはよく知りませんが、今後はそれでは済まないでしょう。しかし新しいものも供給されないんですよ。じゃどうするんでしょうか。
それと同じようなことが、日本の社会のいたるところで起こっているような気もします。
本当は何かを新しくをつくらなければならないんだけど、新しく出てくるものは萌え文化とかAKBとかしかないと。
欠けたものを補完するのではなくて、考え方の方向としてこれまでの集団主義を脱し、個々人でも、「自分とは何か、どう生きるべきなのか」を考える、答えがわからなくてもいいから真剣に考えることをやってみたほうがいいんじゃないでしょうかねえ。
小西 もし新しいビリーフを社会的に供給することができれば、その問題はないのでしょうが、それが原理的に難しい時代や社会になってしまったのであれば、個人個人が自分の生き方を考える方向にシフトする必要があるでしょうね。