8月11日(水)《イル・トロヴァトーレ》
マンリーコ:マルセロ・アルヴァレス
レオノーラ:ソンドラ・ラドワノスキ
ルーナ伯爵:ディミートリ・フヴォロストフスキー
アズチェーナ:マリアンネ・コルネッティ
フェランド:ロベルト・タリアヴィーニ
イネス:ミリヤム・トーラ
ルイス:アントネッロ・チェロン
プリミ・バレリーニ:ルチア・レアル
ホセ・ポルセル、ローザ・サラゴーサ
指揮:マルコ・アルミリアート
演出・装置:フランコ・ゼッフィレッリ
衣装:ライモンド・ガエターニ
振付:エル・カンボリオ(ルチア・レアル)
殺陣:レンツォ・マスメチ・グレコ
今回の4人の主役歌手のうち、メッゾのコルネッティ以外の3人が、09年2月にニューヨークに飛んでMETで聴いた《イル・トロヴァトーレ》と同じ顔ぶれとなりました。しかし、受ける印象はまるで違います。指揮と演出がヴェローナの方が圧倒的に上だからです。
アルミリアートは、イタリアの若手の中でも、リッカルド・フリッツァ、ニコラ・ルイゾッティと並ぶ優秀な指揮者です。
同じイタリア人でも、上記のMET公演を指揮していたジャナンドレア・ノゼダや、昨年のスカラ来日公演で《ドン・カルロ》を振ったダニエレ・ガッティなど少し上の世代が、なぜか妙に繊細で線の細いヴェルディを演奏するのに対し、正統派の熱気に満ちたヴェルディを聴かせてくれます。
アルミリアートは、見た目は華奢な優男で、指揮ぶりもオーレンのように派手ではないのですが、非常に的確なテンポの揺れ(ルバート)で、一見単純なズンパッパというリズムを燃え立たせ、感情のうねりを高めてくれます。《トロヴァトーレ》の音楽は、ベル・カント・オペラ直系の美しい旋律美に満ちていますが、一方で暗い情念がぶつかりあう劇的な激しさと強烈な色彩感も表現されなければなりません。合唱は力強く、オーケストラは咆哮し、それを突き抜けてソリスト達の強い声が響き渡り、せめぎあう、スリリングな展開によって興奮させてくれるドラマなのです。マルコの指揮は、そうしたこの作品の面白さを十分に堪能させ、酔わせてくれました。
特に、第2幕第2場、第3幕第1場フィナーレのコンチェルタートの盛り上げ方が巧みで、力強いヴェルディの音楽を聴く醍醐味を満喫できました。全力を出し切ったのか、カーテンコールの時に歌手に両手をとられて広い舞台を歩く姿がフラフラだったのが印象的でした。
ゼッフィレッリの舞台は、暗く血なまぐさい、そして古風な時代劇のロマンを、壮大なスケールで見せてくれます。これも、2002年の時の拙文を以下に引用します:
「舞台上には、全幕を通して武具と旗指物で覆われた塔が3本たっており、中央の塔は、観音開きに開くようになっていて、第2幕では中からキリスト磔刑像を中心にした黄金に輝く祭壇が現れて、レオノーラが入ろうとしている修道院の場面となり、第4幕はその祭壇が取り払われて、牢獄の内部が現れる、というものでした。
背景はすり鉢状のアレーナの石段がほぼそのまま剥き出しなので音響はよく、しかもライティングで山肌や森のような雰囲気をうまく出していました。舞台両端には巨大な(等身大の2−3倍)甲冑姿の騎士がまさに敵を倒そうとする姿の立像がおかれており、不気味な青銅色の光沢を放つ塔と並んで、内戦に明け暮れるスペインが時代背景であることを表しています。
面白いのは、「カルメン」に引き続いてエル・カンボリオ振り付けでルチア・レアルが率いるフラメンコ・ダンサーの一団が随所で活躍することで、ジプシーの物語であることを色濃く表現しようとしていることです。特に、第2幕冒頭の「アンヴィル・コーラス」では、金床・金鎚を打ち鳴らすだけでなく、カスタネットと手拍子も加わってフラメンコ・ダンスが激しく踊られます。
それ自体はヴェルディの音楽にうまく合っていて面白いのですが、やり過ぎだと思ったのは、原曲にない舞曲を挿入して、スパニッシュ・ダンスの一団が踊るシーンを増やしてしまったことです。曲そのものはヴェルディ作曲のものなのかも知れませんが、通常は演奏されない凡庸な舞曲で、わざわざこれを挿入するのは緊張感を殺ぎ、原作に対する冒涜にしか思えません。ゼッフィレッリは昔、「オテッロ」の映画でもこのような暴挙を試みたことがありますが、他の部分が非常にいいだけに、この「やり過ぎ」は惜しまれてなりません。」
今年も、「原曲にない舞曲が挿入」されていた点は変わりませんが、02年当時ほど激しい違和感は覚えませんでした。やはり、一度聴いていると、余裕をもって対応できます。むしろ、ダンスシーンを長く楽しめる、という点では、エンタテイメントとしてよくできているわけで、あまり堅苦しく考えることもない、という気分で今年は観ていました。
第2幕第2場で、修道院へ入ろうとするレオノーラをルーナが阻止している所へマンリーコが(ホンモノの)馬に乗って駆けつけます。幕切れでは、この馬にふたりが乗って駆け去るシーンが演出されるのですが、この日は、アルバレスとラドワノスキが歌い終わって舞台袖にはいる前に、同じ衣装を着たカップルをのせた馬が飛び出してしまい、替え玉であることばバレバレになってしまいました。
アルバレスとフヴォロストフスキーを私がヴェローナで聴くのは今回が初めて。おそらく彼ら自身も今シーズンがアレーナ初登場なのではないか、と思います。
フヴォロストフスキーは、ルーナ伯爵を歌わせたら現役のバリトンの中で随一といっていいでしょう。アメリカで「dark honey mellow voice」と評される暗めの美声は、マエストリほど圧倒的な声量があるわけではないですが、恋敵の悪の匂いの中にしみじみとした男の哀しみを漂わせ、精悍なマスクにプラチナブロンドの髪をなびかせた姿も水際立った美丈夫ぶり。聴かせ所のアリア<君の微笑み>では、過去の極めつけといわれるエットレ・バスティアニーニの歌唱の影響を離れて、ますます彼自身の独自の境地に達しつつあるようです。
野外ステージということを考慮してか、昨年のMET公演ほどには弱声を使いませんでしたが、持ち前の長大なブレスを生かして長いフレーズをスピアナートな(滑らかな)メロディーラインのアーチをかけるように精妙に歌いきり、強く胸声で押すよりもメッサ・ディ・ヴォーチェのテクニックを使った繊細な響きを追求しているようにみえました。特に、途中の<La tempesta…メрニ歌う高いG音に駆け上がるところで、彼は中音域の太い音色のまま胸声で噴き上がることも十分できることもできるにもかかわらず、敢えて頭声に抜くような軽い発声で流しておき、カヴァティーナの終わりの部分に至って、初めて、男性的な胸声の強烈なフルヴォイスを響かせ、それまでの柔らかな発声との鮮やかな対比をみせてくれます。
カヴァティーナの曲全体としてはあくまでも恋心を歌い上げるベルカントのロマンツァとしての優美なスタイルを堅持しながら、最後のカデンツァで迸る情熱を炎のように燃え上がらせて、後半の恋人の略奪を目指す勇壮なカバレッタへなだれ込む序奏とする、というのは、考え抜かれた個性的な解釈だと思いました。
アルバレスは、METでこの本来スピント系の歌手が歌うべき役に挑戦して自信をつけたのでしょうか。なかなか堂々たる歌いぶりでした。本来リリコの声ながら少しずつ重みも加わり、往年のディ・ステーファノのようなタイプになりつつあるような気がします。さらに、眼をぎらつかせてアグレッシブな表情をみせる演技力とメリハリをつけた歌いまわしで、うまく声の力を補っていました。第3幕幕切れのハイCもびしっと決め、<allヘarmi!>の「i」の母音もちゃんと出して終わりました。
ラドワノスキがレオノーラを歌うのを聴くは、04年のヴェローナ、09年のMETに続いて3度目となりますが、今、この役を歌わせたら彼女が一番うまいのではないか、と思います。特に絶品なのが第4幕冒頭の<恋は薔薇色の翼にのって...>です。カラヤン盤のマリア・カラスの録音をレコードが擦り切れるほど聴きこんだ私には「ラドワノスキも同じことをしたに違いない」と思わせるほどその影響が顕著なのですが、それは単なるモノ真似ではなく、まさに伝統芸能の継承というべきものであって、ここはこう歌われるべきものだ、という絶妙のフレージングなのですね。
アルミリアートは、カラヤンよりもさらにゆっくりとしたテンポでたっぷり歌わせるのですが、それでも歌唱スタイルはまさにカラスと同じだと思います。とにかくヴェルディの書いた音楽そのものがすばらしいのですが、それをメトロノームのようなテンポで機械的に演奏したのでは、かくも美しく、切なく、心に染み入るものにはなりません。テンポの微妙な溜め、ゆらぎ、間のとり方、そうしたものが様式感となって楽譜の表面の奥に隠れているのです。それを汲み取り、再現していく。ここでのレオノーラは、音色の面でも、単なる美声ではなく、悲痛な翳を帯びた暗みのある声でなければなりません。ラドワノスキはそうした要求をハイレベルで満たしている、と思いました。ただし、<ミゼレレ>からあとの後半部になると、低音部が弱いので、カラスほどドラマティックな凄絶さが出ないのでした。
メッゾのコルネッティは、非常に強く響く声で、広いアレーナ向きだと思いますが、私がここで彼女を聴くのは実は久しぶりで、98年《アイーダ》でのアムネリス以来です。その後、サントリーホール・オペラのエーボリやボローニャ来日公演のアズチェーナなどを日本で聴いていますので、ヴェルディを中心に活躍している中堅歌手といえましょう。声量という意味では、4人の主役の中で一番出ていたかもしれませんが、この役の複雑な性格をどう捉えるか、というスタンスがあまりはっきりしなかったような気もします。しかしながら、MET公演のザジックと比べても遜色がないレベルのアズチェーナであったと思います。
この公演では、たまたま主役歌手4人が全て非イタリア人(テノールがアルゼンチン、バリトンがロシア、女声ふたりはアメリカ)。ソロを歌うイタリア人歌手はフェランドのタリアヴィーニだけでした。声、テクニックともになかなか立派なフェランドだったと思います。