8月11日にシルミオーネからヴェローナに向かいます。半島の先端部から根元に向かって車を走らせると反対車線が大渋滞。1本道で逃げ場がないので、奥の駐車場に入るための順番待ちの車が列を作ると片側1車線の道路は完全に詰まってしまうのです。
また来たいところではあるのですが、聖母被昇天(Assunta)の祝日(8月15日)の前後はヴァカンス客で特に込み合うのでここに来るのは避けた方がよさそうです。
ヴェローナでは、ホテル・アッカデミアに投宿。ここもマリア・カラスが最初にヴェローナに来た時に泊まったゆかりのホテルなのですが、ホテルの中には特にそれを記念する表示などはありません。
ヴェローナの街の中心部、ブラ広場の一角を占める古代ローマの競技場「アレーナ」は、初代皇帝アウグストゥスの治世(BC27~AD14)末期から遅くともAD30年までには建造されたといわれますから、およそ2000年前の建造物です。この地方特産の白とピンクの大理石が使われ、観客席の石段は44段、上から見ると長径139m、短径110mの楕円形。
オペラの時は、その長径部分の3分の1ほどを舞台として使い、残りが観客席で15,000人ほど収容することができます。平土間中央部の最上席の価格が189エウロ(平日)~204エウロ(週末)、石段上部の自由席が22エウロ(平日)~24エウロ(週末)となっています。
チケットはインターネットで入手できます。以前は、ネットで予約だけして現地のビリエッテリア(チケット売場)でチケットを発行してもらう方式でしたが、今は、バーコード入りのチケットをA4の紙にプリントアウトしたものを劇場入り口に持参すれば、そのままバーコードリーダーでチェックを受けて入場できます。
この日のオペラは《アイーダ》。1913年にヴェルディの死後10年を記念してこの演目でヴェローナ音楽祭は始まりました。古代エジプトを舞台とする壮大なスケールの作品で、古代ローマの石造りの遺跡にもマッチしており、最も上演回数の多い演目です。今回のゼッフィレッリのプロダクションも2001年以降、何度も繰り返し使われている豪華でよくできた舞台です。
指揮:アンドレア・バッティストーニ
演出・装置:フランコ・ゼッフィレッリ
衣裳:アンナ・アンニ
振付:レナート・ザネッラ
アイーダ:アマリッリ・ニッツァ
ラダメス:グレゴリー・クンデ
アムネリス:サーニャ・アナスタジア、アモナズロ:マルコ・ヴラトーニャ、ランフィス:マルコ・スポッティ、エジプト王:ロベルト・タリアヴィーニ、使者:フランチェスコ・ピッターリ、巫女:フランチェスカ・ミカレッリ
今年の目玉のひとつは、地元ヴェローナ生まれの気鋭の若手揮者、アンドレア・バッティストーニによる指揮。一昨年の《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》の時にも感じたことですが、この人の指揮で感心するのは、飛んだり跳ねたりする大振りの姿にマッチした熱気を感じさせる部分と、それとは裏腹ともいえる冷静で緻密な音楽作りも見せてくれるところです。
呼び物の第2幕凱旋の場の派手なスペクタクルシーンももちろん十分に楽しませてくれるものでしたが、今回は特に出演歌手の特質とも合っていたせいか、第3幕、第4幕でのアイーダとラダメスの間のしっとりとした二重唱シーンの美しさが際立っていました。
そしてこの日の公演のもうひとつの目玉が、グレゴリー・クンデがラダメスを歌うということ。ロッシーニとヴェルディの両方のオテッロを歌って話題になるなど、最近注目の米国出身のテノールです。
テノール好きの方々には失礼かもしれませんが、私は常々、ヴェルディはテノールが嫌いだったのではないか、と思ってきました。
なぜなら、オテッロとリッカルド(グスターヴォ)を除くと、ヴェルディのオペラに出てくるテノール役はどれもが思慮が浅く能天気な直情径行型に描かれているからです。色好みのマントヴァ公爵は言うに及ばずマンリーコは恋人が毒をあおってまで自分を助けようとしているのに気がつかずにレオノーラを詰りますし、アルフレードは満座の中でヴィオレッタを辱め、ガブリエーレ・アドルノもアメーリアがシモンの囲い者になったのではないかと勘違いして逆上します。
ラダメスも例外ではありません。第3幕、夜のナイルの岸部で待つアイーダに密会するために彼が現れる場面で使われている音楽の能天気なこと。特にドミンゴが歌うそれはデートの場所にやってきた男が「アイーダちゃん、待ったあ?ごめんね~。会いたかったよ~。」という感じで「やに下がった」感にあふれています。いかにもすぐその後で女の色香に迷って軍機を漏らしてしまうダメ軍人らしい、といえばそのとおりで、さすがドミンゴ、ヴェルディ先生のテノールに対する悪意をそのまま感じ取って音楽にしている、と感心した次第です。(そして彼はテノールを辞め、バリトンになりました。)
ところが当夜のクンデのラダメスはどこか違いました。
まずは、伏線があります。第一幕に歌われるラダメスの有名なアリア《清きアイーダ》。
このアリアの時点ではまだどのテノールが歌っても英雄的でかっこいい武人の姿です。この役を歌う歌手はリリコ・スピントといわれる力強い声を持ったテノールがふさわしく、輝かしい声で逞しく朗々と歌い上げる場面です。然しながら、アリアの最後の部分「un trono vicino al sol」の「sol」を最高音で引っ張るところ、楽譜ではディミヌエンド(正確には「morendo」)してピアニッシモで終わるように指示されているのですが、大抵の歌手はフォルテのまま、派手に引き延ばして終わります。
テノールであっても高いB音を絞るのは非常に難しく、ましてやスピント系の重い声の歌手には至難の技というべきことなのでしょう。《清教徒》でハイFを出したこともあるというクンデにとってはそれほど困難なことではないのかもしれませんが、この最後の音を彼は輝かしい声で長く伸ばしながら徐々に声を絞り、最後はファルセットに近いソット・ヴォーチェで締めくくってみせたのです。
一方で、アリアの入りの部分、「celeste Aida」の「Ai-da」などの上昇部分を、ベルゴンツィなどは「歌い崩し」を嫌うあまりに素気なく「楽譜通りに」上げてしまうのですが、クンデは、ベルカント伝統のアッポジャトゥーラを嫌味にならない程度に入れて滑らかに上昇させます。楽譜に書いていないといえばいない音なのですが、ベルカントでは入れることがある意味お約束になっている歌い方です。
この時代のヴェルディがどこまでこれを許容したのかはよくわかりませんが、ロッシーニ歌いから出発したクンデとしてはこれが自然なのでしょう。そのほか、締めくくりだけでなく途中の高音部でも広い会場に臆することなくソット・ヴォーチェに絞ってみせるなど、リリコ系の歌い回しの巧さもみせてくれました。
一言でいうと、後期ヴェルディを歌うのにふさわしい逞しい声でありながら、力任せに叫ぶのではなく、繊細なベルカントのテクニックを駆使しながら歌う歌手が出現した、ということでしょうか。
ロッシーニ歌いからヴェルディも歌うようになったテノールといえば、2014年のローマ歌劇場来日公演《シモン・ボッカネグラ》でガブリエーレ・アドルノを歌ったフランチェスコ・メーリもその口です。その公演の感想文に私はこう書きました:「スピント系テノールによって歌われることも多いこの役を、弱声を巧みに織り交ぜるリリカルな歌唱スタイルで実に清潔に優美に歌ってみせ、新しいアドルノ像をみせてくれました。従来の直情径行で単純な青年というイメージを払しょくし、男らしく高潔で元首(ドージェ)の後継者に相応しい人物としてのアドルノを聴いたのは今回が初めてです。」
この夜のクンデにも似たような印象を受けました。メーリよりはさらに逞しい声ですが、それを押し出したりせず、ベルカント唱法を駆使して後期ヴェルディを歌っている点は似ています。そして、その結果なのかどうか、クンデのラダメスも「直情径行で馬鹿なテノール」ではなく「男らしく高潔な」若い将軍に見えるのです。これはいったいなんなのか?私には、まだ十分な答えが出せていません。
しかしながら、ヴェルディの時代の歌手たちは、ベルカント(オペラ様式のベルカントではなく、唱法としてのベルカント)の技法をしっかり身に着けていたことは確かでしょう。そうした技術と様式感を持った当時の一流テノールたちが歌えば、英雄的で高潔な主人公が描けるようにちゃんと音楽は書かれていたのであって、ヴェルディは別にテノールという役柄に悪意を持っていたわけではないのかもしれません。
題名役のアマリリ・ニッツァは、最初はあまり声が響いていないように感じましたが、徐々に調子をあげ、特に第3幕でラダメスを説得するシーンでは、しっとりとした情感を漂わせる大人のアイーダを好演していたと思います。
アムネリスのアナスタジアも、声のパワー十分で、容姿にも恵まれているのですが、権高ながら純粋な愛に生きる王女というよりは妖艶なデリラやタイスのような誘惑者の方が似合う感じもなきにしもあらず。
第4幕第1場では、アムネリスがラダメスの命を救いたい一心で彼を呼び出し、説得を試みますが、死を決意したラダメスは耳を貸しません。彼はそのまま立ち去るのですが、ここで今までにみたことのない動きをクンデのラダメスは見せました。いったんアムネリスを抱きしめ接吻してから背を向けるのです。この場面で別れ際にキスをするラダメスというのを私は初めて見ました。今までに観たゼッフィレッリ演出(2002年、2004年、2010年)でもこんなシーンはなかったように思います。アナスタジアの妖艶なアムネリスを前にして、とっさに出てしまった演技なのだとしたら、面白いと思いました。
アモナズロのヴラトーニャ、ランフィスのスポッティ、国王のタリアヴィーニはそれぞれ立派な声で、不足感のない出来でした。