昆劇公演《牡丹亭》(2010年10月25日赤坂ACTシアター)
坂東玉三郎と蘇州昆劇院の日中共同公演。この組み合わせは、これまで、京都、北京、蘇州、上海で行ってきたそうですが、東京での公演は今回が初めてとのこと。
《牡丹亭》の原作は全55幕もあるものだそうで、今回はそのうちの6幕を休憩2回の3幕仕立てで上演しました。玉三郎が主役の杜麗娘(トーリーニャン)、その恋人柳夢梅(リューモンメイ)を兪玖林(ユージューリン、男優)、小間使いの春香(チュンシャン)を沈国芳(シェングオファン、女優)、石道姑を呂福海(ルーフーハイ、男優)、杜母を朱恵英(ジューフイイン、女優)などが主な配役。
中国の伝統演劇というと清朝で発展した京劇が有名ですが、昆劇はそれより古く、明時代の15〜16世紀に成立したもので、中国では百劇の祖といわれているのだそうです。能より少し新しく、歌舞伎やオペラより少し古い、しかし、《牡丹亭》の作曲は16世紀末だそうですから、歌舞伎やオペラとほぼ同じくらいの歴史をもつ音楽劇といえます。
昆劇にもいろいろな形式があるのかもしれませんが、今回観た《牡丹亭》というお芝居で比較すると、歌舞伎よりも圧倒的に歌の比重が高く、しかも演者がすべて自分で歌うという点で、むしろ西洋のオペラかミュージカルに近い感じがします。主役の玉三郎は、6~7分のアリアを4つ、3分ほどの小アリアを2つ、そのほかにも他の演者とのかけあいなどで短い歌をいくつも歌います。これはベル・カント時代のいわゆる「プリマドンナ・オペラ」と比べても非常に多いといえましょう。
歌は、中国語の韻律をいかした優美で美しいメロディーが多いのですが、初めて聴く身にはどれも似通ったものに聴こえ、やや単調で変化に乏しい感じがします(プログラムの解説では、昆劇の歌には1500種ものパターンがあり、京劇よりはずっと多様であるとのことです)。ベル・カント・オペラの場合は、同一人物のアリアでも叙情的なカヴァティーナと技巧的なカバレッタというような変化をみせる趣向がありますが、そのようなことは重視されないようです。むしろ、漢詩の朗詠のように、メロディーは一定のパターン、形式を守り、歌われるテキスト(詩)の内容で勝負する、ということなのかもしれません。
歌舞伎の長唄や清元も同じ傾向があり、西洋音楽のようにメロディーの独創性はあまり重視されていないように感じますが、しかし、もう少しパターンの変化と起伏には富んでいるような気がします。歌舞伎の場合、歌の大部分は役者とは別の専門家が担うので、より高度な技芸が発達したという見方もできそうです。
昆劇の「歌」のメロディーは、すこしコブシを効かせたりするところもあって、邦楽に通じる感じもするのですが、きわめて長いフレージングの長唄や清元よりは、素朴で親しみやすい短いフレーズを多用するところは、むしろ民謡に近い感じがします。長大なブレスコントロール技術を持つプロの唄い手を前提としていない作りになっているといえましょう。なお、メロディーラインが優美でなめらかなところは、ベッリーニのベル・カントに通じるところもあるのですが、特徴的なのは、そのなめらかなメロディーラインをときどきフッとわざと途切れさせる箇所があることです。
さて、その歌唱です。今回は会場が広いせいかマイクを使っていたのですが、長唄のような邦楽系の発声というよりは、どちらかというと基本は西洋式の発声に近いような感じがします。もちろん、男女ともにファルセットや頭声を多用する甲高い発声は現代のクラシック系声楽の作法とは違います。二枚目役の男優も地声よりもファルセットで歌う部分の方が多く、4分の3以上は甲高いファルセットで歌っていました。西洋のオペラの場合も18世紀までは、主役の若い男性役はカストラートが担っていました。洋の東西を問わず、宮廷趣味からみると、男の太い声は優美さに欠ける、という感覚があったのかもしれません。
柳夢梅の歌には、地声とファルセットを交互に出すヨーデルのような部分もありました(ここで言う「地声」とはファルセットではない通常の発声という意味で使っています。声楽的な発声法を使わない声という意味ではありません)
。玉三郎の場合、もともと地声も中性的なところがあるので、このファルセットと地声の転換が非常にスムースで自然に聴こえます。
玉三郎が歌うシーンは、これまでも、たとえば「一本刀土俵入り」とか「阿古屋」などで聴いたことがあることはあるわけですが、このようにまさに歌唱が中心というお芝居は初めてです。声は美しくなめらかでプロのカウンターテナー歌手と比べてもあまり遜色がないレベルで、しかも他の中国人俳優の発声とは同じ基盤にある中国式の発声を身に着けているように感じました。メロディーも中国語(蘇州語)の歌詞も全て耳で聴いて覚えたのだそうです。歌いながら舞うような動きも多いのですが、本格的な舞踊という程ではなく、舞踏家としての彼の凄みをみせつけるような場面はありませんでした。
一途な16歳の乙女の夢のような恋物語ですから、演技に関しても彼の持ち味を発揮するほどの高度なものは必要とされない感じがします。しかしながら、その存在感と研ぎ澄まされた美意識というものは十分に味わうことができました。
管弦楽は、歌舞伎の下座と同じように舞台の袖(ただし上手)に隠れていて観客は直接見ることができません。
演奏は、笛と二胡、提琴、揚琴、琵琶、筝などの各種弦楽器が中心で、打楽器は小銅鑼とおそらく単皮鼓・壇板など少数のもの(プログラムの奏者紹介では司鼓とのみ書いてあって具体的な楽器名がわからない)しかありません。しかもチョワン・チョワンと鳴る小銅鑼は、歌舞伎でいえば「ツケ打ち」のように、人物の動きに合わせて打たれることが中心で、伴奏音楽のリズムを取る機能はあまりないように見受けられます。
日本の能や歌舞伎の所作事では、小鼓、大鼓、太鼓などの打楽器が伴奏音楽の骨格となって大活躍します。一方で、浄瑠璃系では楽器は三味線のみですが、下座では効果音として鉦や太鼓が使われます。とにかく、打楽器が少なく、しかもゴング(銅鑼)系やカスタネット系の音はあってもドラム(太鼓)系の音がないうえ、弦楽器に弓でこするもの(胡弓類)と、撥でたたくもの(揚琴)が入るので、中国音楽の音色は邦楽とは全く異なったものになります。あの中国音楽独特のホニャラララ〜という少し脱力した軽躁感は、胡弓類と揚琴が曲芸的に細かいパッセージを弾くことによってもたらされるものだと思います。
観終わった感覚は、ブローウェイミュージカルの名作を観たときと同じような感じで、楽しめる舞台であったことは確かなのですが、オペラや歌舞伎のように同じ演目を何度でも足を運んで観てみたいと思わせるほどは惹きつけられなかった、という感じでした。