加藤 大野和士さんがおっしゃっていたのですが、メトみたいな大きな劇場だと歌手の人がおっかなくなっちゃって、声を張り上げてしまうんだけど、本当はそんなに声を張り上げなくても・・・
I女史 大劇場でも本当はすごく声が通るんです。
武田 確かに、バルトリがメトで歌ったのを聞きましたが、ちゃんと声は通ってましたね。
運営者 メトの来日公演のリハーサルを見せてもらったんだけど、あれだけ熱心にピーター・ゲルブ自身が音量を調整しているのであれば、リリコでも何でも客席に声は通るはずなんだから、歌手はそれを信用して歌えばいいと思いますけどね。なんでやらないんでしょう?
武田 重い声でがっちり歌うことに生理的な快感を覚えるというのはあるよね。
手塚 今のヴェルディファンにはそういうところがある。
加藤 それが優先されて音程の正確さとか犠牲になっている面がけっこうあると思う。私、音程悪いのは気持ち悪くて聞いていられない。
当時は絶対にベルカントだったんですよ。ストレッポーニはドニゼッティ歌手だったんですから。ヴェルディは彼女に向けて「ナブッコ」を作っているわけだから、ヴェリズモなわけはないんです。
武田 もちろん、ヴェリズモではない。でもやっぱり、重い声で歌うヴェルディもいいけどなぁ。男性的なオドキの音楽だから力強い声が似合う。ワインでいえばフルボディの赤。《ファルスタッフ》だけはシャンパンだけど。
手塚 ヴェルディ作品は、歌手が歌う場面ではオーケストラが薄くなってますよ。割と音を切ってスカスカにして。
武田 アリアではそういう配慮もしてますね。しかし、コンチェルタートではやっぱり分厚い音を突き抜ける声が必要なところもあります。それに、劇場は大きくなり、コンサート・ピッチだって上がっているので、やっぱり声のパワーは必要。美しいだけではない劇的な表現力を追求したヴェルディにふさわしいのは、やっぱりドラマティックな声でしょ。大きければいいというわけではないけど、骨太で強靭なカンタービレを歌い切れる声。
加藤 「マタイ受難曲」は以前は100人くらいの合唱で歌うのが主流だったけれど、古楽が復興してから、十数人で歌うのが普通にもなってるじゃないですか。その手の小人数の合唱のレベルはすごく高いですよ。
気持ちいいくらい決まるから。
手塚 小回りが利くから。だからヴェルディも軽くやってもいいんじゃないかと。
加藤 この間、フェニーチェ歌劇場の芸術監督のフォルトゥナート・オルトンビーナさんに話を聞いたら、「オテロ」は本当はもっとベルカントだったんじゃないかと言ってました。「最近のヴェルディはヴェリズモすぎるんじゃないですか」と聞いたら「まったくその通り」だと。
この人が今回グレゴリー・クンデを「オテロ」に抜てきしたんです。「クンデは初演の時のタマーニョと似たキャリアだからおそらく似ているだろう」と思って聞いてみたら、本当に素晴らしかったですよ。
武田 4月に来日するから、聞いてみましょう。
手塚 武田さんの好みに合わないないんじゃないの?
加藤 私も持っていますが、「トロヴァトーレ」の楽譜を見たら細かい指示がたくさん書いてあります。第二幕の幕切れなんて、ピアニッシモが十数個書いてあるんです。ppppppppって。
手塚 それを何で守らないのかね?
加藤 ヴェルディ本人がそう言ってるわけですから。それをガーッっと歌ってしまうというのは・・・
武田 「アイーダ」の最初のラダメスのアリアも最後は、ピアニシモなんだけど、フランコ・コレッリはちゃんとやってるんです。ああいうすごい声の人でもちゃんとやるときはやるんです。
手塚 他で聞かせられる自信がある人はちゃんとピアニシモをやるんだな。
加藤 ピアニシモって難しいんですよ。
手塚 「自分を売り出したい」という邪念があると、結果的に声が通らない。
武田 ただね、ベル・カントとかヴェリズモという言葉をオペラの様式を指す言葉として使うのか、発声法や歌い方の方法論を指す言葉として使うのかは、区別して論じたいですね。
ヴェルディの前期の作品は、ベル・カント・オペラの様式を引き継いでいて、特に《トロヴァトーレ》は最後のベル・カント・オペラと言っていいでしょう。ベル・カント・オペラの特徴のひとつであるアジリタを多用する装飾的な歌唱やカヴァティーナ・カバレッタ形式のアリアは次の《ラ・トラヴィアータ》前半を最後にして姿を消します。しかし、アイーダやアメーリアを歌うフレーニの発声は伝統的なベル・カントのスタイルだ、ということもできるのです。
一方で、ヴェルディのオペラは劇的なリアリティを追求しましたが、後期の作品であっても、決していわゆるヴェリズモではありませんよね。《カヴァレリア》、《パリアッチ》、《外套》みたいな貧乏ったらしい「現実」生活を舞台にのせるのがヴェリズモだとすれば、ですが....。
アジリタ技巧なしにロブストな声で単調に押し出すように歌う歌唱法をヴェリズモという言葉で代表させるとすると、むしろワグナーの歌い手こそヴェリズモといえるかも。
それにね、マリア・カラスが歌うノルマ、アンナ・ボレーナ、《トロヴァトーレ》のレオノーラ、ヴィオレッタ、《仮面舞踏会》のアメーリア、トスカが最高であることはおそらく誰も異論がないですよね。その彼女の歌い方はベル・カントかヴェリズモかなんて言っても意味がない。もしかしたら彼女の声や歌い方は作曲家が想定したスタイルとは違うかもしれないとしても、そんなこと誰が気にします?
古楽器でバッハを演奏するのもいいけれど、グレン・グールドが現代のピアノで弾くバッハの方が感動する、ということもあるでしょ。
加藤 グレン・グールドのバッハと、グスタフ・レオンハルトのバッハはどちらも素晴らしいです。同じ土俵に載せることはできない。ものさしが違うから。
レオンハルトにとってバッハをピアノで弾くことは邪道でした。レオンハルト前にも彼と同じことを考えて実践したひとはいたけれど、レオンハルトに比べればまるで中途半端でした。レオンハルトはある意味チェンバロの歴史、古楽の歴史を変えたひとです。
私が今言っているのは、レオンハルトのバッハと同じ方法論がオペラで出てきて、それが水準が高くなって成功しつつあるということ。カラスの「トロヴァトーレ」はもちろんすばらしいけれど、まったく別の方法論で歌っているケルメスの「トロヴァトーレ」もほんとうに素晴らしいし、カラスのノルマは素晴らしいけれど、バルトリのノルマもほんとうにすごかった。この2人はいわばグールドとレオンハルト。ともに歴史を変えた(変える)歌手だと思う。カラスのものさしがすべてに当てはまるとは私は思いません。