「ビジネス雑誌」進化論
皆さんこんばんは、岡本呻也です。きょうは雑誌についてお話しします。
まずこれを見ていただきたいんですが、ビジネス雑誌っていうのは、世の中にいっぱいあるわけなんですけれど、どのように発展してきたのかということを整理してみたんです。
最初は、ビジネス雑誌っていうのは、第一期「ダイヤ・東経の時代」と書いてますけれど、「ダイヤモンド」とか「東洋経済」とか、一番古いのは「エコノミスト」。それから「実業之日本」という、もう今はなくなってしまった雑誌なんですけれど、これらは百年を超える雑誌だったわけですね。株情報を基本とした雑誌だったわけです。だから、昔は「ダイヤ相場」とか「東経相場」といって、月曜日に雑誌が発売されるとそれで相場が動いたといったことが、昭和30年代40年代にはあったわけなんですよ。
だから、昔はビジネス雑誌の中身というのは基本的に会社の話とか業界の話とか、あるいはマクロ経済の話のインタビューが載るというようなものが、ビジネス雑誌であったという牧歌的な時代でした。それが、80年代前半くらいまでのビジネス雑誌だったわけです。
実はそうでないビジネス雑誌っていうのは、「日経ビジネス」とか「プレジデント」なんですけど、これは大体1965年ごろ輸入されたもので、最初はアメリカの雑誌と提携してつくった経営ノウハウ誌だったんですね。だから、アメリカの経営ノウハウを輸入すると。たとえば最新の経営理論を翻訳して、それを持ってくるというものだったんですよ。
だから最初は横組みだったんですね。まあ「日経ビジネス」は今でも横組みですけれど。それに独自取材のものを載せるという感じだったわけです。それが1960年代後半に、「日経ビジネス」と「プレジデント」という形で入ってきた。まあ、その頃まではこの2つしかなかったわけです。
それで、実は今日は皆さん、大同生命霞が関ビルにいらっしゃっていますが、この場所というのは、日本のビジネスジャーナリズムにとっては非常に意味深い場所なんですよ。ここに、昔ダイヤモンド社という会社があったんですね。自社ビルが建っていまして、ピーター・ドラッカーの「断絶の時代」というのを出して、それが大いに売れて、それで建ったビルなんで「断絶ビル」と呼ばれてたんですね(笑)
断絶ビルだったんですが、バブルの頃にそれを建て直して「ダイヤモンドスーパータワー」にしようという構想があったぐらいなんですよね。それはまあ立ち消えになったんですけれど、違う形で今ここに実現しているわけです。
実は、「プレジデント」というのは、「フォーチュン」を出してるタイム社とそのダイヤモンド社が半分ずつ折半で作った会社なんですよ。で、「ダイヤモンド」を創刊したのが石山賢吉という人でして、その人の息子さんで石山四郎さんという人がいたんです。大変先見の明があった人なんですけれど。まあ故人の悪口を言うわけではないんですが、ダイヤモンド社の経営をしてたんですけれど、その「断絶の時代」が当たって儲かっても、社員にボーナスを出さなかったりしたんで(笑)、社員が怒って追い出されちゃったんですよね。
それで、これじゃいかんというんで作ったのが、プレジデント社という会社でして、プレジデントも最初はここにあったんですよ。このビルの7階だったかな。そういうわけなんで、このビジネス雑誌の揺籃期においては、この場所というのは非常に重要な役割があったということですね。