「プレジデント」と「日経ビジネス」
その後の話をすると、ダイヤモンド社はそのように非常に組合が強い会社だったので、給与水準が非常に高くて、人件費によって非常に経営が左右される。まあ、これは現状もそんなことになっていまして、いよいよダメだというので、90年代後半にこの土地を売ってしまいました。そしてこのビルが建ったわけです。
ダイヤモンド社自体は、そのビルを売って4つビルを買ったそうです。それぐらいこの場所は価値があった。なぜならば、ここは霞が関1丁目、「霞が関」という地名で民間が持っている土地っていうのは、この一角しかないんですよ。このビルと、隣の日土地ビルだけが、唯一民間が持っている「霞が関」の地名があるビルで、他は全部役所なわけですね。というわけで、まあ大層値打ちがある所だということをわれわれは意識しなければならないんですが、誰もそんなことは知らないです(笑)。
ちょっと話を戻しまして、会社とか企業の話だけやってれば、ビジネス誌じゃないかという時代もありました。でも今は違いますよね。どのように発展してきたのか。
第2期っていうのが、「プレジデント」と「日経ビジネスの時代」というふうに僕は思ってるんですが、これはあくまでも私のオリジナルの認識ですからね。
この80年代から90年代にかけては、ビジネス誌の幅がグッと広がった時代なんです。どういうことかっていうと、まず「プレジデント」というのは、さっき申し上げたように「フォーチュン」の翻訳から始まって、アメリカの最新の経営理論を日本に持ってくるというはずのものだったんですよ。ところが、そうすると、部数が4万部から上がらないんですね。
「もう潰れるぞと。どうすればいいんだ」というふうなところで、本多さんという人を社長に連れて来たんですね。この人は、諸井薫という名前で作家としてエッセイをいっぱい書いていた方ですよ。ご存知の方がいらっしゃると思うんですが。もう亡くなりましたけどね。天才編集者である彼が、70年代後半にプレジデントにやって来てやったことが、「横組みだったのを縦組みに直しましょう」と。
で、「日本の昔の偉人の話をやりましょう」と。最初、明治維新あたりの話から始まって、そのうちに戦争もので海軍の話とか陸軍の話とか。「これはいけるな、この線だな」と。「じゃあ、戦国武将の話をやろうかな」というふうな形になってきたのが、大体1980年前後の話なんですよ。
どういうことかっていうと、ビジネス誌というのは、ビジネスの話や会社の話しか載ってないものでした、というふうなところにもってきて、言ってみりゃこれは講談本の世界なんですよね。で、「講談本が会社で読める。こりゃいいわい」ということで(笑)、結構部数を広げることになった。
で、それを突破口にして、「ビジネス雑誌といったって、別に会社の話だけやらなきゃいけないという話じゃなくて、もっといろんな話をしてもいいんじゃないか」というような突破口が開けたんだと僕は思うんですよ。
そこで、いろんなものを載せるようになってきて。やっぱりヒット商品の話とか、どうやってヒット商品を作ったのかとか、技術ものとか。僕らは「開発もの」とか「開発物語」とか言っていました。日立とか松下とかそういうところの技術者が、この商品を作るにはどういうふうにしてやったのかということを、事細かい取材をして載せるというのが結構ヒットしたんですよね。NHKの「プロジェクトX」はこのパクリでしょう。