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 余は如何にして編集者となりし乎 1989年 24歳


  この年の春が来るまで、私は異常な集中力で働いていた。土日もなかった。そして、本気で辞めたいと思っていた。
 しかし、変化が起きた。T取締役が販売部長として異動するというのである。すると話は変わってくる。たとえ「カレント21」のようなしょうもない広報誌でも、まったく自分の自由になるとすると魅力的なことだと私は考えた。なぜなら、媒体を使って人脈を拡げることができるからである。そこで私は止まって、仕事を続けることにした。

 T取締役異動後の私の仕事は、「カレント21」と某生保の外交員が配る隔月刊の冊子になった(これはT部長に押しつけられたもの。予算の締め付けが異様に厳しく、全くやっつけ仕事の域を出なかった。

 私は11/30に納品する「カレント21」1990年新年号からの全面改訂をもくろんでいた。改訂のポイントは、
1. 見開き展開主義(それまで2ページの記事しかなかった)をとりやめ、巻頭にビジネス関係の特集記事を掲載すること。
2. 誰でも知っているような有名人を登場させること。
3. テーマは「感動」。なぜなら、私は経営の知識がないので、企業紹介にしても誰でもわかる面白さを追究するしかなかったからだ。
 どれも単に私がやりたいだけのこと、私の都合に照らしてのことだった。しかし、東京郵政局や某都銀の納本が終わった4月から会社が青山一丁目(青山ビル9階)から平河町に引っ越した6、7月にかけては、何となくリニューアルについての構想を練りつつ過ぎていった。

 この春、S編集長に頼んで、「プレジデント」の編集会議に顔を出させてもらった。どのようにして雑誌の企画が案出されるのか知りたかったからである。当時の編集会議は、校了後に一日くらい置いて、丸二日間くらい行われていた。一日中会議室で雑談をして、最終的に編集長が企画をパッと言い渡して終わるというモノだった。これは私の想像とは全く違う会議の方法だった。ただの時間の無駄になることがわかったので、2回くらいで失礼させていただいた。意見を集約して価値あるモノを作るという文化は、まったく存在しないことがわかった。でも、できあがった雑誌は"熱"のこもったおもしろい雑誌になっていた。不思議だ。

 一方私はこの年、ネットワーキングについても大きな一歩を踏み出した。

 私は外部資源について、デザイナーとカメラマンとライター以外はほとんど会社から与えられないことに失望していた。「このままではやばい」という切実な危機感があった。自分で何とかするしかない。側聞するところ世の中には、「勉強会」という形式の集まりがあって、人脈づくりに役立つらしい。不幸にして私はまったくそういう会合につてないが、なければ自分で作るという方法があるな、などと考えていた3月頃、大学の映画サークルの先輩から「勉強会を作らないか」との誘いを受け、私はうまうまとこの話に飛び乗った。
 幹事はこの先輩と日経の記者と私である。第1回はこの年から導入される消費税本の中で一番よく売れていた本の著者であるサンケイ出身の経済評論家に手紙で依頼した。講師依頼は簡単なのだが、困ったのは参加者である。「将来頭角を現しそうな友人2人を必ず連れてくること」という決め事だったが、私は1人しか連れていくことができなかった。今でこそ私は幅広い人脈を持っているという幻想が流布されており、紹介を求めてくる人が後を絶たないが、当時の私は本当にこうしたネットワークに関係させられるような社会性と専門性を備えた友人が少なかった、というか皆無に等しかったのである。それ故に、私は情熱を持ってネットワーキングに取り組み続けたと言うこともできる。

 昭和と平成から一文字ずつ取って「昭成会」と名付けたこの会は月に1度のペースで開かれた。これが本当の意味での社会人としての私のデビューであったのではないかと思う。私はまだまだ「白紙」であった。しかし遂に、自分を自分で作っていく武器を手にしたのである。人は、他人によって研磨されていくのだと思う。しかし、誰を砥石とするかは自分で選択するべきだと私は信じる。

 8・9月にエポックがあった。

 リニューアルのプランは山一證券の編集会議にかけられ、了承を得ていた。この会議は毎号行われ、海千山千の部課長10人を相手にして青二才である私が企画についてプレゼンテーションするのである。私の前はT取締役がやっていたのだから、たいへんな落差だ。まさに笑止である。でも、ホントにそれをやっていたのである。
 私はP編に異動するまで、会議には毎回村上部長の応援を頼んだ。さすがの私も、単身でこの会議を乗りきる自信はなかった。なぜなら小さな失敗が命取りになるリスクがあったからだ。危険は回避するに越したことはない。

 リニューアルのためにカンプまで用意したが、最大のアピール点は長島茂雄の登場である。正確には「長島くらい知名度のある人物を登場させる」という主張であり、長島に何のつてもない私としては詐術を使ったようなものである。しかし、この手で私は並みいるうるさがたの部長たちを沈黙させた。私の方針による全面リニューアルは決せられた。

 会議の後、私は一人で金沢、能登地方に旅した。能登半島の先端に程近いホテルに投宿し、潮風に吹かれて、夏の終わりの日本海の日没を見やりつつ、「あ~あ、あんな大見得をきって、ほんとうに俺にやれるんだろうか」と限りない不安にかられ嘆息したのを憶えている。私は精神的にも孤独だった。そして孤独に馴れていった。

 この頃、山一の担当者がかわり、木谷高明というアメリカ帰りの人物になった。彼も私の人生に大きな影響を与えた人のひとりである。彼は後にブロッコリーというベンチャー企業を興し、上場させた。彼の名は、帰国以前から「凄いのがいる」と耳に入っていた。ネットワーキングの世界で名をとどろかしていたのである。彼は資源を組み合わせて効果を発揮する方法について、素晴らしい才能を持っていた。また、彼が初代会長となった透水会は一つの伝説であった。私は10/25にはじめて透水会に参加して、「同世代の中でこのような光輝く人々の集まりがあるのか」と驚愕した。だが、私自身がそうした輝ける若者たちの集まりを作り上げるまでに、そうたいして時間はかからなかったのである。
 木谷氏と組んで仕事をおこなうことで私は多くの知識やノウハウを吸収することができた。まったくラッキーだったと思う。

 長島茂雄氏が突然インタビューに応じてくれたのは、まったくの偶然だろうか。長田渚左氏のインタビュアーとしての起用(フジテレビのスポーツニュースに出ていて顔が売れていた割にはフリーランスであり、しかも間にうるさい事務所が入っておらず、かつ自分で原稿を書ける人だったから。今では鐘と太鼓で探しても見つからない逸材だ)と、ひつこいFAX攻撃という多少の工夫がもたらした僥倖だと私は思う。恥ずかしい話だが、あまりにも嬉しかった私はその日の午後の北海道行きの飛行機のトイレの中で落涙した。私は賭に勝った。ひたすら嬉しかった。

 退官していた佐々淳行氏も相次いで取材した。彼には積極的に接近しようと私は考えていた。最初の特集の取材相手には堀紘一氏を選んだ。この取材をきっかけにして後に『タイムベース・マネジメント』という本がプレジデント社から出版された。
 また、取材には原則的に同行する方針にしたため、地方への出張機会が増えた。依頼原稿が減り、私が書く原稿量が増えた。



 この秋、二度誤植が出た。9/30納本の号で、韓国籍社長の"李社長"を「季」社長とやってしまったのだ。これは私の責任で、全部刷り直した。リニューアルの最中で、リニューアル前の号に神経が配れていなかったのだ。反省。

 次に11/30納本のリニューアル号では、"森ピル観光"の社名が"森ビル開発"になっていたのを発見してホッとしていたら、記事本文の書体がリニューアル前のものになっていたので、これを新しいものに直す指示をしたときにやっぱりタイトルまわりが以前の"森ビル開発"に戻っていて、そのまま刷ってしまって誤植になってしまった。組版の電算化の移行期だったので起こった悲劇だった。紙を中質紙(ジャック)から上質紙(ダイヤコート)に変えたので、バカみたいな失敗である。

 この後、私が誤植を出すことはなかった。

 この秋、私は何かにつかれたように「勉強会」と名の付くものには片っ端から顔を出していった。新興宗教の集会にまで顔を出していたくらいである。世はバブルまっただ中で、勉強会は花盛りであった。異業種交流会から得られるものは少なかったが、同世代の人間が中心の会合では幾つかの重要な邂逅があった。この時出逢った何人かとは、彼らの人生の転変と私の社会的活動が綾をなしつつ今日に至り、また将来にわたるであろう貴重な友人たちを得ることができた。

 この年は、私にとって大きな転機だった。何によりそれが得られたのか。より広い世界を求めて社外に積極的に打って出たこと。偶然によいパートナーや同志を得たこと。しかし、幸運は自分で呼び込むものだとも実感する。


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