この年は意外にもエポックのない年である。1990年につくった幾つかの仕組みが、構造を変えることなく安定的に機能した。その結果として人脈と経験が無理なく拡大した期間であろう。面白いことにこの年にはあまり重要な出会いもない。しかし活動は活発に続けていたので、自分の中で力を蓄える一年だったのではないだろうか。
基本的にはP編に行ってビジネス雑誌を作るつもりだったので、私の興味の対象は政治経済に偏っていた。山一からの情報はホントに勉強になった。山一が打ち出したいネタをそのまま彫り込んで取材すれば、企業経営の仕組みや株式公開の仕組みがわかる。しかも取材先は売上高30億~200億くらいの中堅企業なので、各企業の成長要因や戦略がはっきりとわかる。そうした事について、日本全国のオーナー社長に直にあって話を聞くことができるのだから、こんなに勉強になる機会というのは探そうと思っても探せるものではない。「カレント21」の取材を通して、20代で200人程度の企業経営者に会うことができたと思う。ここでの見聞は私の血肉になった。
しかし、山一のおじさんたちは政治とマクロ経済の記事は避けたがる。この辺は勉強会で積極的にカバーし、人脈を作っていった。
90年まではP編にある種の憧れを抱いていたが、このころになると全く関心がなくなり、「プレジデント」にも目を通さなくなっていた。
B&Bはこの年の春から、定例会についてはお茶の水スクエアか、スクエアがとれない場合は中央大学記念講堂で午後7時から2時間半の講演会形式の勉強会を行い、その後近くの"ぷら座"という学生御用達の居酒屋に移動して二次会をするという形式が固定してきた。ぷら座はわれわれのために固定した場所を用意してくれたので、非常に居心地ががよかった。よちよち歩きのスタートだったが、いろいろな友人の力を得て、ターボがかかったようにB&Bは急成長を始めた。木谷氏のマネジメント力の力が大きかったことは間違いがない。この年の暮れまでには、非常にレベルの高い議論をする勉強会という名声の確立にほぼ成功したと思う。
定例会の他には6月と11月にシンポジウムを行い、私は司会者として参加した。特に秋には、夏前の証券スキャンダル、秋以降の経済成長鈍化の予測から、「日本経済の構造問題を議論しよう」ということになり、「その結果を出版しよう」というところまで話が広がっていった。何度か準備会合を開き、意見のとりまとめをしたものである。この本の執筆メンバー6人は今や社会の一線で活躍している。既にかなり有名になってしまった人も複数いる。未だに沈殿しているのは私一人である。これらの才能が一緒に作業したということは、奇跡的な出会いとしか形容のしようがない。
並行して佐々淳行氏を囲み識者を招いて話を聞く会を作った。これはハンドリングに手が回らないので、5,6回でやめてしまった。