ニューヨークから暗い気持ちで帰国した私は、1/9会社に出頭し、N本部長から状況を聞いて驚いた。なんと、大河ドラマに便乗した1月号と営業モノの2月号の成績がいいので、編集長の地位は変更ないという。便乗ものはオリジナルの競争力を市場に認めさせたものではないので、これで多少売れても状況にほとんど変化はなく、単なる問題の先送りに過ぎないのだが、それで話が通ってしまうのであった。
私は仕事の指示を受ける前に、編集部から脱出する決意を即座に固めた。
ただ、粕谷先生にだけ意見を求めたいと思った。1/12の午前中に速達で手紙を書いたら、すぐ会いに来るようお電話を頂戴した。粕谷先生とのやりとりを自分の中で勘案して、私はやはり考えを変えないことにした。
1/14午前の編集会議で、私はおおむね2点を編集長に質問した。
1. 編集長は、現在の編集方針で部数を反転させることができるという確信を持っているのか?
2. 編集長は、編集部員の志向や満足度、将来に対する考え方を把握しているのか?
答は簡単で、質問1に対しては「やってみないとわからない。繰り返して同じネタをやっていればいずれ効果が出るのではないか」。質問2に対しては「全く自信がない」とのことだった。私は「そんな編集長にはついていくことができない。この場で、口頭で異動願いを出す」と宣言した。
私は、「どこに異動されても結構」と申し上げておいた。結局どこも引き取り手はなく(私が無能なのか、みんなよほど余裕があるのか)、N本部長の手回しで「新雑誌企画準備室」をつくることになった。私は一刻も早くP編から抜け出したく、3/1付の事例を2月半ばに出してもらい、引っ越した。正直、ほっとした。
さて、新雑誌企画といっても「プレジデント」の部数を一部でも食う新企画はやるな」と申し渡されている。どんな企画でも、「プレジデント」を一部も食わないということなどあり得ない。なぜなら「プレジデント」は総合雑誌だからだ。
とりあえず、2月半ばに書店廻りをしてみることにした。プレジデント社の雑誌が市場でどのように受けとめられているのか、われわれの主戦場である書店が、私が書店研修をした10年前とどのように変化しているのか知りたかったからだ。結果は驚愕すべきものだった。市場環境は激変していた。しかるにプレジデント社の社内文化にはほとんど10年の間変化がなかった。
3月には、 ブランドの研究 をやってみることにした。プレジデント社の最大の資源であるブランドをどう扱えばよいのか、その原理的な研究について調べてみた。
4月以降は金融ビッグバンを睨んで、富裕層を対象に日本の新たな金持ち文化を提案する新媒体を作ることができないか考えていた。結局、12月号の別冊付録をつくることになったので、この時の考察は活かされた。
6月に神楽坂へ引っ越した。理由は、曙橋を通る車の音(特に夜中に慶応から女子医大にたらい回しされる患者の救急車のサイレン)がやかましいこと。たまたま友人から眺望のいい部屋を紹介されたこと、による。
7月、「レ・ミゼラブル」を11人連れて見に行った。感動の押し売りである。
8月以降は、金融別冊付録の制作のために10月一杯まで忙殺された。
9月には、日経金融新聞に寄稿を頼まれた。いい宣伝になった。
語学留学から帰国後、B&Bで帰国報告会をやり、50人を前にして2時間講演した。みんなMBA取得者なので、彼らを相手に2カ月の外国経験を話すというのは噴飯モノだが、これを契機にあちこちから誘われて、結局9回話をした。毎回話す内容を変えたので、トータルでは書籍数冊分に相当する考えの整理ができたと思う。結構しんどかったけれど、こうした思考訓練をすると、考え方がまたその先に進むのでよいと思う。
1月からは新しい勉強会に参加。このメンバーは一騎当千の強者ばかりで(私以外は全員東大卒、大学院卒)、滅茶苦茶質が高い。本当に勉強になる。
B&Bは危機に瀕していた。私は帰国後、これに気がついた。手を打たなければならない。
そこで、上記の帰国報告会をやった経験から、講師を招いての定例会を中止し、B&Bの参加者数名に講演をさせる。自分で講演した人間だけを参加有資格者として、講演できるだけの智恵を持たないアホを排除するというスクリーニングの手段を考えた。これは5月に身内講演会として実現した。この時は4人が登壇し、マクロ経済学や経営学、会計学、人事について講演した(この時講演した人は、今やみんな大学教授、もしくはそれに準ずる。 わたしですら東北大学客員教授だし)。これを繰り返していけば、アホを排除できるはずである。
しかし、現実は厳しかった。5月の会を実現するまでに、一部世話人が「従来から参加していたメンバーも排除してしまうのは適当でない」と強硬に主張した。人間は、組織目的が明瞭でなければ、目の前の人間関係の維持を目標として採用してしまうものである。集団指導体制にした場合、外部から強い圧力がかかっていなければ、決定は惰弱に流れてしまう。こうして大抵の日本的組織は没落していく。そうしたメカニズムがわかっているので、私は心を鬼にして、この世話人の実権を剥奪したが、つくづく嫌気が差してしまった。
結局、第2回以降の身内講演会は開催しなかった。私は大学時代、「利己的遺伝子学説」に傾倒していたので、これについて横国大の佐倉氏に語っていただく定例勉強会を行い、これを最後にして勉強会の企画をやめようと思った。
事実上、この時点でこの体制は死んでいたのだ。私は、引退を決意した。このシステムが十全な機能を発揮する時期は終わったのだ。
私がB&Bに求めたのは
1. 優秀な人材との継続的かつ効率的な出会いの場であること
2. 高度な情報を交換することができる場であること
3. 交友のベースであること
4. 講師招聘をきっかけとして、仕事でも使える人的資源を広げること
といった要素だった。このうち1.については、メンバーの固定化が進み、かつ一部わがもの顔に振る舞うアホが流入し、新たに優秀な人と出会える頻度が極端に少なくなっていた(私自身の期待度も高くなっていた)、2.に関しては1.が減るほど効用が減っていく。4.については、「プレジデント」の看板を使えば十分人に会うことができるので、受託出版をやっていた頃とは事情が違う。そこで講師招聘はどちらかといえば参加者を確保するための手段という意味あいが強くなっていた。そこで是が非でもどのような人の話が聞きたいのかというニーズを汲み上げる必要があったのだが、最後までそうした参加者の声を汲み上げることはできなかった。
B&Bは、名前の通り、そもそもアホが入ってくることを想定していない組織だった。第一世代は相当高い基準で集めてきた人たちだった。次に、1992年にコロンビア大学のスタディ・トリップを受け入れるために集めた人たちが第二世代をなした。これが現在まで続くコア・メンバーになっている。
結成当時は、その年代にしてはあまりにレベルが高いので、アホは自動的に排除されていくというコンセプトだったのだが、8年もたつと、各人の成長のレベルにかなりの差が出てきてしまったわけである。たいへんな勉強を続けている人もいる、国際ビジネスマンとして大活躍している人もいる、会社経営で成功している人もいる……その努力の度合いによって進歩のレベルも千差万別だ。卒業していった人も少なくない。アングラ~修士~博士課程とひろがりをもっており、先頭集団からビリッけつまでは、周回遅れ以上の差ができてしまった。そうした人々を一つにまとめておくのはしょせん無理だった。方向としては、ついてこれない人を切るしかなかったが、そこに他のぶら下がり型会合のメンバーにつけ込まれる隙があったのである。恐ろしいことだ。
費用対効果の観点から、私はB&Bから退くことにした。
私は10月には引退する旨を世話人全員に告知した。今後のB&Bの運営をどうするかについては、すべてを現世話人にまかせることにした。B&Bは確立した名声を持ち、数百人の関係者を持つ集団に成長していたので、私の判断だけで店じまいしてしまうわけにはとてもいかなかったからだ。世話人からは、B&Bの運営を続けたいとの意向が伝わってきた。B&Bの存続が決定した。
12月のクリスマス・パーティーで、私は引退の挨拶をした。「B&Bは永久に不滅です」。
10月末、友人とメールをやりとりしていて、「メディア人だけが集まる飲み会を組織したらどうか」という提案を受けた。私はこれに飛びついた。というのも私はメディアの知り合いが少ないと自覚していたからだ。準備会合を経て、毎月1日に開くので「1の会」と命名した月例会が12/1にスタートした。
5月末に、当然というか遅すぎると言うか、やっぱり編集長の更迭が決定した。「1年以内に更迭したのでは外聞が悪い」という思いやりの結果だったが、「プレジデント」はそんな体裁にこだわっていられないほど弱体化していた。そもそも、適任かどうかを判断できなかった経営幹部の責任である。
新任編集長はK氏である。だが編集長以外の編集幹部は私の編集部復帰を望まなかった。
新編集部のコンベンションに私はオブザーバーとして出席し、深い絶望を味わった。この時のメモがあるが、新編集体制を分析した結果、根本的な構造欠陥があると思った。
統率力(組織力)
問題把握能力(情報収集・分析統合能力・構想力)
企画立案能力(顧客指向性・専門性・抽象的論理的思考能力・展開力)
効率的業務達成能力
以上の諸点について、能力が非常に低い。いつまでもつかという時間の問題だと私は看て取った。
11月初旬に別冊付録の編集作業を終えた後、すぐに新潮社から依頼のあった新潮45臨時増刊「日本をどうする」の編集作業にとりかかった。
新潮45の石井編集長には、ピートたけし取材でお世話になったので、頭が上がらない。この年、「コマネチ」「アッカ」と40万部ずつを売り、別冊で当ててきた彼が次に目をつけた素材が塩野七生である。9月の初めにこの泣く子も黙る閨秀作家を口八丁手八丁で説得するためにローマに飛んだ彼に、塩野氏がつけた条件は二つ、1.現編集担当者を使うこと、2.プレジデントの岡本を使うこと。
私としては、全力を尽くしてやるか、あるいは断るか、二つに一つの選択である。私は迷わなかった。
10月には、石井氏から若手有望株の実名インタビューを中心に据えたいとの方針が伝えられた。私は人選に入った。結局私が担当する45ページは
1. 発言する5人の過激派……塩野さんに代わって私が、どうすれば日本を変革することができるかその方策をインタビューする
2. いま焦眉の「5つの提言」……4人の合議で、思い切りがよく、かつ現実的妥当性のある政策提言を行う
という内容とし、「塩野七生と若き過激派たち」というタイトルでこの増刊の柱とすることに決定した。
12月中旬までに原稿を完成させ、組版が終わってからは新潮社で校正作業を行った。私としては、この仕事は膨大な利益調整の仕事だった。塩野氏、新潮社、各協力者全員の錯綜する利害をいかに調整し、全員が満足できる結果に落とし込むか、これは気の遠くなるような話だった。失敗すれば信頼を失ってしまう。私が今まで築いてきた人脈を賭けた、のるかそるかの勝負だった。
私が精作った原稿を読んだ塩野氏は、自分の署名入りの原稿の中に、「私が以前から才能を認めていた若い編集者、岡本呻也」と書いてくれた。
私は3年ぶりに帰郷して、いい正月を過ごした。