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  江戸城天守閣再建計画(江戸城復元計画)

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 趣意  

 東京にはシンボルになるような建物がない。東京都庁舎が、首都東京の顔でいいのだろうか。そこで、皇居の東御苑に、江戸城天守閣を復元し、一般開放することを提言したい。

  江戸城の再建には、以下のようなメリットがある。

 観光資源の建設として著しい効果が見込まれる   
ランドマークとして、博物館として

 東京には観光資源は乏しい。外国からの観光客は、日本情緒を楽しむためには近くても日光、鎌倉、さらには京都、奈良まで足を伸ばさなければ、古き良き日本の伝統に触れることはかなわない。本格的城郭建築に至っては大阪城か、新幹線の中から見る姫路城くらいしか目にする機会はないのである。
 しかし、東京駅から降り立ってすぐに、豪壮な城郭建築が目に飛び込んでくれば、多くの外国人の心を掴むことができるに違いない。パリに凱旋門、ワシントンに国会議事堂と、ランドマークは欠かせないものだ。ならば東京のランドマークは江戸城がいい。
 内部は、明治以前の文化芸術の紹介を通して、日本人の精神世界を紹介する展示とする。皇室と日本人の関係を含めて、「日本人とは何か」というアイデンティティを問い直す文化的展示を行う。外国人に日本文化への理解を深めてもらうだけでなく、初等教育の一環として児童の学習の場とする。
 また北の丸公園側にバス発着場をつくり、江戸東京博物館やその他の観光施設、ホテルに向けた連絡バスを走らせることで、東京観光の拠点とする。これらの幾つかの観光施設を巡れば、「日本人とは何者か」についての総合的な理解が進むような有機的なつながりを持ったプログラムを考えるべきだ。

 国際会議施設として利用可能

 APECの大阪城開催は、外国人にバカ受けだった。ならばサミットを迎賓館でやらずに、江戸城でやればよい。もともと本丸なので警備も容易。首脳会談など、こたつにみかんでやれば、こちらのペースに相手を引き込むきっかけがつかめるかもしれない。
 以上の観点から考えると、費用対効果ではかなり有望な投資になるではないだろうか。


 再建江戸城天守閣概要

 皇居東御苑には、天守台が現存している。基底部38×34メートルの石組みである。この上に高さ地上61メートル、五層六階(地下部分有り)の天守閣が載っていた。屋根は白っぽいスズの合金でふき、軒下の部分が白の漆喰と黒板。火除けには、名古屋の鯱を凌ぐ高さ3メートルの黄金の鯱を頂いていた(屏風絵参照)。面積的には、大阪城のほぼ2倍のサイズである。
 一方、皇居の周囲の建築規制は、昔百尺、近年100メートルとなり、この100メートル規制も撤廃されている。61メートルの高さで再建するのが適当であるかどうかは、シミュレーションが必要。警備上の理由から、天守閣の開口部分ははめ殺しの防弾ガラスでなければならない。
 機能的にはまず、サミットを行うことができる国際会議施設の収納を考えなければならない。内部を本格的日本建築とする必要性は全くない。機能・アメニティ優先の近代施設とすべきだ。ただし、インテリアデザインは当然ながら和風を基本とすること。天守内に会議施設が収まりきらなければ、天守閣の付帯施設として本丸の一部を再建する。プレスセンターやバス発着場は、北の丸公園に建設することが考えられる。
 二の丸には、小堀遠州作の回遊式庭園があったが、現在は宮内庁施設の下敷きになっている。日本庭園はぜひともに必要だ。二の丸の一部に復元する。
 観光施設として整備するには、皇居前広場から二重橋を見て、坂下門から入城し、旧本丸を縦断して天守閣に登頂して、北の丸公園に抜けるコースが考えられる。
 恒久的な構造物の建築のためには、埋蔵文化財の調査が必要である。

国立歴史民俗博物館所蔵「江戸屏風絵」国立歴史民俗博物館所蔵「江戸屏風絵」

皇居東御苑の現況

 旧本丸と二の丸をあわせた東御苑は、宮内庁病院や皇宮警察の利用部分を除いて、一般に公開されている。旧本丸には、書陵部と楽部があり、楽部に付属するように 昭和41年2月に完成した桃華楽堂という200名収容の音楽ホールが建っている。ここではときどきクラシック系の演奏会が行われる。
 1990年11月22日深夜、東御苑に建設された大嘗宮で、今上天皇の即位の儀式である大嘗祭が行われた。大嘗宮は東西が95.4メートル、南北が99メートル。悠紀殿、主基殿を中心にして、大小39棟の建物を高さ2.5メートルのよしず垣が取り囲んでいた。参列者は733人。これはまったく神秘のベールに包まれた神道の儀式であったが「公的性格がある皇室行事」として、大嘗宮の建設費14億5300万円は宮廷費から支出された。
 また、1999年11月の在位10周年では、宮内庁保有の祭具や馬車が展示された。

 江戸城天守閣の沿革

 江戸城の起源は平安時代末期、江戸氏を名乗った平重継の子孫の館が旧本丸、二の丸あたりにつくられたことにあると推測されている。
 その館の跡に、康正二年(一四五六年)、扇谷上杉氏の執事だった太田道潅が築城。ここを根城に関東平野全域で合戦を繰り広げる。太田道潅の暗殺後、扇谷上杉氏の家来が城代で江戸城を管理し、やがて小田原北条氏が関東を支配するようになると、北条氏の支城となる。北条氏綱は武蔵国の押さえとして江戸城を重視し、本丸に宿将の富永氏、二の丸に同じく遠山氏(遠山の金さんの先祖)、三の丸に道潅の孫の太田資高を配した。
 北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入府し、文禄元年(一五九二年)、西の丸(現在の皇居)の造営にはじまる本格的な改修工事が行われ、万治三年(一六六○年)将軍家綱のときに七十年に及ぶ大工事がようやく完成した。ただし明暦三年(一六五七年)には、振り袖火事によって天守閣を含むほとんどの建物が焼け落ちてしまう。その後、天守閣以外の建物は再建されるが、再びこの城の天守閣が江戸の空に偉容を誇ることはなかった。

 実現に向けての障害  

 大局的見地から見て国民福祉の増進に大いに役立つ施設であるとの民意が固まれば、皇居内であろうと公共建築は可能なはず。しかし皇居内に不特定多数の人々が入場すると警備上の不具合があるとの指摘が予想される。
 だが、2階以下を一般に開放しているホワイトハウスの例から見ても、堀を隔てた皇居の警備が難しいとは考えにくい。  

 事業主体  

 建築費用(1000億円程度か)を含む初期費用は国が負担する以外に考えられない。皇居は宮内庁、迎賓館は総理府、新宿御苑は環境庁自然保護局の管轄。また、観光行政ということになれば運輸省の所管となる。
 ただし江戸城建設並びに観光コース確定後は、すみやかに運営管理を独立行政法人に移管し、入場料収入と管理運営費の収支均衡を目指すべきだ。       

1999.1.19 



2014年追記 2020年開催予定の東京オリンピック・パラリンクピックに向けて、江戸城を復元するのはどうか、という話がでているみたいですね。

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