ドイツ編 ヴュルツブルグ
手塚 代表取締役名誉相談役
翌8月25日、日曜日。朝7時過ぎにホテルでブッフェ形式の朝食をとる。ここで出ていたプレーンヨーグルトが実にまろやかで、舌に優しく当たり美味。柑橘の苦みの残るママレードを滴らして楽しむ。パンやコーヒーの旨さはあえて言うに及ばず。
ホテルをチェックアウトし、タクシーでパリ東駅に向かう。今日はいよいよドイツ、ロマンチック街道に入る。8時52分発の国際特急列車でフランクフルトまで約6時間、そこからさらにドイツ国内特急に乗り換えてロマンチック街道の起点、ヴュルツブルグに向かう。国際特急は一等コンパートメントを予約していたので家族で貸し切り。途中シャンパーニュ地方を通り、メッツ、マンハイムを経て約6時間の列車の旅である。昼食は食堂車にいって食べるが、火を使わない日本の新幹線の食堂車と違って(最近食堂車自体が廃止になったとも聞くが)、こちらは本格的な料理を出す。ビールを飲んでハンガリー風シチューのグーラシュを食べる。美味。
フランクフルトで乗り換えた列車が約20分遅れて発車するが、無事4時半にヴュルツブルグの駅に到着する。駅前のタクシー乗り場でタクシーに乗り込み、ホテルSt. Josef(1泊ツイン112ドル)に向かう。ここはアメリカで買ったガイドブックでお買い得な中級ホテルとして推薦されていたところである。
が、しかし看板のある入り口を入って狭い階段をのぼり、2階の入り口のドアを押しても鍵がかかっていて開かない。どうなっているの? ベルをならしても叩いてもウンともスンとも返事がない。仕方なく階下にある居酒屋のようなレストランに入り、ホテルにチェックインしたいのだけど、と尋ねるが「え? だれもいない? おかしいなぁ?」といった調子である。ここは確かにドイツの田舎だ。
しかたなく階段に座って待っていると10分ほどして慌てて入ってくるオヤジがいる。「すまん、すまん。」とか言っている様子で、階段を上り鍵をあけてくれる。他に客はいないのか? あてがわれた部屋はさらに上の3階にあったが、極めて質素でシンプルながら、なかなかこぎれいで心地よい部屋である。
さて、これで宿の手配は完了した。ひと心地ついてから、小雨あがりでやや湿った、しかしさわやかに澄んだ空気の古都、ヴュルツブルグの夕暮れを散策することにした。フランケン地方の司教領主の都として中世から栄え、シーボルトやレントゲンを生んだ学術都市でもある。市の中心を流れるマイン河にかかる美しいアルテ・マイン橋の中ほどに立つと、市庁舎や聖キリアン聖堂が望め、また対岸の丘の上には大司教の居城であったマリエンブルグ要塞がそびえている。子砂利の河川敷きの中をさざなみをたてながらマイン河は静かに流れ、どこか京都の鴨川沿いのたたずまいを彷彿とさせる。
夕食の前に立ち寄ったノイミュンスター教会の中庭で、思わぬものを発見した。森鴎外の記念碑である。この中庭には、中世の吟遊詩人、ワルター・フォン・デア・フォーゲルワイデの墓(ワーグナーのマイスタージンガーにも登場する)がひっそりとたたずんでいるのであるが、その脇に日本の作家、森鴎外がこの地を訪れた旨を記した石碑が建っている。鴎外は1884年から1888年の4年間、20代半ばの陸軍2等軍医として衛生学を修めるためにドイツに留学している。この4年間にライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンの4都市を移り住んでいるが、ミュンヘンにいたのは1886年であるから、この年にここを訪れたに違いない。
そしてこの1886年こそ、かのルードヴィッヒ2世が謎の水死を遂げた年でもあるのだ。鴎外はこの遅れてきた悲劇の王の謎の死に深いインスピレーションを受けて、有名な「うたかたの記」を著した。明治初期の青年がこの古都で、中世吟遊詩人の墓を前にして、何を想ったのだろう。
さて今宵の夕食は市庁舎(ラーツハウス)の地下にあるラーツケラーである。500年の歴史を持つこのレストランで、ことによると100年前に森鴎外も食事をしたかもしれない。ここで牛肉の煮込みに芋をダンゴにしたような付け合わせの料理を食べる。ワインは、フランケン地方に敬意を評してフランケンワイン。ドイツワインは食事に合わせるには甘みが強すぎてあまり得意ではないのだが、フランケンワイン(昔の水筒のような円形とした特徴的な容器に入っている)は、辛口の白である。日差しの弱いドイツでは葡萄の熟度が足りないせいか、やや酸味が強いが、さっぱりしていてなかなか美味しい。