新イタリア紀行【4】
手塚 代表取締役名誉相談役
2000.3.26
翌31日の金曜日は、朝9時にホテルをチェックアウトし、呼んであったタクシーで再びF社へと向かう。(途中運転手が、気をきかして「ここから500メートルばかり左に入ったところにパバロッティの生まれた家がある。」と教えてくれた。辺りは農家以外何もない荒涼とした畑であった。)
9時半に同社のギャラリー(博物館)に乗り付け、開館と同時に入場し、歴代のF-1レースカーとそのエンジン、記念の品々の展示を駆け足で見学した。モータースポーツファンにとっては殿堂か聖地のようなこの博物館を20分で切り上げ、付属のショップで簡単な土産物を購入して、徒歩で工場へと向かう。今日は10時から、フランスの部品メーカーの技術者を交えてのミーティングが予定されている。我々がせまい会議室に通されると彼らはもう席についていた。
会議は滞りなく進み、全く技術上の問題がないため、今後のテストスケジュールを確認して、11時過ぎには終わってしまった。フランスから来た彼らは、今日の午後のモデナ発のフライトで帰るということで、早めに昼食をとろうということになって、同社の持つ迎賓レストランに招待された。工場から歩いて5分の構内にある山小屋風のレストランに案内されると、ここがまたモータースポーツファンには感涙ものの場所であった。
創業者の思い出の品々に囲まれた店内は、食器からテーブルクロスに至るまで、すべて同社のロゴマーク入り。(食器はイタリアの高級ブランド、リチャード・ジノリに特注で造らせたロゴ入りのソーサー。)
ここで地元エミーリャ・ロマーナ地方特産の珍しい発泡性赤ワイン、ランブルスコを飲みながら、木の子をトマトとクリームのソースで和えた太めのパスタと、モデナの地元料理と推薦されたボリート・ミストを食した。ランブルスコは赤ワインながら、味は極めて淡泊なクリスマスのころ不二家あたりで売っていそうな薄いシャンパンもどきのような酒で、こくが全くなく、筆者は余り感心しなかった。パスタもイタリアにしてはやや茹で過ぎで、ソースも月並み。少々がっかりさせられた。
一方、ボリートは、この地方特産の豚や牛の肉を煮込んだ固まりを、大きな特製のワゴンで目の前で切り分けてくれるという、シンプルな家庭料理で、フランス料理のポトフに近いものである。少々脂っこかったものの、おでんのように味が染み込んでいてなかなか美味ではあった。
さて昼食が終わると、フランス人たちはフライトがあるからとそそくさと帰る用意をはじめたので、我々もタクシーを呼んでもらい、同社の人たちに別れを告げてモデナの駅に向かった。2時55分モデナ発の列車に乗り込み、ミラノについたのは夕方の5時過ぎであった。旅の疲れからか、二人とも午睡の誘惑に抗しきれないなか、列車はミラノ中央駅に入っていく。再び中央駅近くのヒルトンにチェックインしたが、夕食の前に少し市内を散策することにした。
出発前の短い時間に、筆者はホテルの部屋から留学時代のイタリア人の友人、B嬢に電話した。ミラノのコンサルティング会社に務める彼女には、出発前にファックスを打って、会えないか打診したのだが、残念ながらその期間は出張でローマに行っていて会えないという返事をもらっていた。その代わり携帯電話の番号を教えるのでぜひ電話して欲しいという。
B嬢は一昨年、彼女と同じナポリ出身で、今もナポリで開業医をしている婚約者と結婚したのであるが、今年初めに赤ちゃんが生まれたと連絡をもらった。旦那はナポリから動けないので、夫婦別居生活のはずだが、赤ん坊をかかえてどうやってミラノで仕事をしているのか、不思議に思っていた。教えられた番号に電話すると運良く一発でつながってB嬢につながった。ちょうどローマの駅で列車をまっているところだという。早速こちらの近況を話しながら、くだんの質問をぶつけてみたのだが、待ってましたとばかり自分がいかにクレージーな生活を送っているか、とうとうとしゃべり始めた。
曰く、自分が仕事に出ているときはベビーシッターと自分の母親を縦横無尽に使いこなして赤ちゃんの面倒を見てもらい、週末になると列車でナポリの旦那のところまで子供をつれて帰っているという。「それってイタリアの女性の間ではやっている生き方?」と訪ねると、「ワタシはずばぬけて進んだまったくレアなケースでしょうね」という。カトリックの伝統と家族主義の価値観の強いイタリアで、確かにこれはレアケースに違いない。「列車がきたから切らなきゃいけないけど、お話できてよかったわ。じゃまたね。チャオ!」筆者は元気で頑張ってねとしか答えようがなかった。