広告は「半真実」でしかない
神保 同じ情報でも、ジャーナリズムは商品広告とはまったく違います。何が違うかというと、広告は広告スペースを買っているわけで、その情報には嘘があるわけではありませんが、すべてを伝えているということでもないわけです。ここが大切な点です。
アメリカでは法廷で証言するときに宣誓をするわけですが、その時は、
「"真実の全体"と、真実以外のことは言わないことを誓います」
と言うのです。嘘をつかないというのは当然ですが、「事実の一部分だけを恣意的にかいつまんで話すということは、ウソに匹敵する悪いことである」という考え方があるのです。自己に利益を誘導する「半真実」はある意味で悪意を持っている可能性もあるからです。
ですからもし世の中に広告しか情報がなければ、「デロンギヒーターはクリーンで性能がいい」という広告は事実ではあるけど、使ってみると電気代が異様に高いという、マイナス部分の情報については全く伝わらないことになってしまいます。その意味で、よく雑誌にある記事と同じフォーマット(段組)を使った記事広告は自殺行為だと思いますね。
あるいはもし世の中に広告しか情報がなければ、消費者は、無責任な伝聞情報に近いものを基にして物事を判断するしかなくなってしまう。
運営者 それはそうなんです。私も前の会社で、記事広告に「広告ページである」という印を入れてないケースをめぐって、会議の席で社長に文句を言ったことがあるんですが(それが編集長の首が飛ぶ一因にもなったらしいですが)、そういうところに無頓着なメディア人があまりに多過ぎると思いますね。
神保 でもね、そうであればなおさら自然発生的にジャーナリズムが出てくるはずなんです。どちらかというと、「ジャーナリズム」よりも「ジャーナリスト」の方が先にあるわけです。
はるか昔、原始人がいて、向こうの方で何か大きな音がしたときに、全員が見に行くわけにはいかないから、「だれか行動力があって好奇心が旺盛で元気いっぱいの奴が偵察してこい」ということになりますよね。そいつが見に行って帰ってきてから「こんなことが……」と話すわけですが、最初はもし嘘をつかれていても、他の人は見ていないわけですからわからないですよね。ところがしばらくすると、「あいつの話は面白いんだけれど話を自分でつくってる、でたらめだ」というのがばれてしまいますよ。
僕は、「信用できるメディア」のことをジャーナリズムと言うと思っています。でも、信用できるかどうかを決めるのは消費者なんです。
でも、「こいつの話には信憑性があるよ」ということになると、「じゃ、君の話を是非紙に書いて売るといいよ」と勧める人が出てくるでしょう。その時点で質は低いけれどもジャーナリズムになっているわけです。そしてその人の話がどれだけ面白いかと、質が高いかによって、その情報の値段は、結局市場がつけることになるでしょう。
「彼の話は信憑性がある」とか、「この人は真顔で言っていても平気で嘘をついている」という判断ができて、「どういう情報であれば実際に役に立つのか」という基準が自然にできてきたのでしょう。それがジャーナリズムの始まりだと思います。
だから、日本でも記者クラブ制度と再販制度を廃止して、完全に自由競争で駅売りだけでメディアの競争をやったとすれば、まずはスポーツ新聞ばかりが売れるかもしれません。しかし、「スポーツ新聞の中には信憑性が低いものがある」ということがわかってくると、「それに踊らされないようにしよう」と考える人が出てきて、対抗するメディアが起こってくるはずです。
報道の嘘を見抜くためには、高いレベルのリテラシーが必要であり、やっぱり一度は騙されてみなければ見抜けないものです。アメリカの議会放送局であるC-SPANでも、79年にスタートしてから80年代の中頃までは、パフォーマンスをやる政治家ばかりが増えて、国会でぬいぐるみを着たり踊ったり大変なことになったんですが、そういう連中は2回の選挙を通して「結局何も出来ない人間だ」ということが有権者にわかったし、「わかりやすく政治を説明するアカウンタビリティが必要なんだ」、それと「本当に自分たちの利益を代表する人を議会に送るべきなんだ」ということにみんなが気がついて。やっとその先のレベルに進むことができたわけです。