ジャーナリストは受け手に対してしか責任を負わない
運営者 次に、取材する相手についてはどのように選んでいますか。
神保 僕は、無意識のうちに取材対象を2つのカテゴリーに分けていると思うんです。
ひとつは、事実の判断をするために必要な情報の絶対量を蓄えるための情報源。オフレコ取材もそうですね。
もうひとつは、ピンポイントで「これが欲しい」という情報を与えてくれる人たちで、こちらの方は名前や顔がビデオの中に出てくる人が多いでしょう。そしてこちらの方はある程度、最初に判断をしているわけです。しかし「ここにはまる人が誰なのか」がわかるまでの取材の方がたいへんです。
また、「この取材については、ここまでの掘り込みが必要だ」という感覚も、経験則から出てくるものです。取材量が少なくても「これでいける」ということもありまし、あるいは僕がうちの会社の新人の取材を見ていると、自分が詳しくないテーマでも、「ここが甘いな」ということはカンでわかりますよね。
運営者 ジャーナリストは、取材対象者に対してはどのような態度をとるべきでしょうか。
神保 われわれは基本的には、取材対象者に対しては責任は持っていません。われわれが責任を負っているのは読者や視聴者に対してなんです。
ですからジャーナリストはある意味、取材対象者に対してはホスタイルですらあるかもしれません。つまり、「取材に応じるも応じないもあなたの勝手です。取材に応じた場合には何を書かれるかわからないというリスクがあります。しかし応じない場合にはもっとリスクがありますがどうしますか」ということなんですから。
運営者 損な記事を書かれるのかもしれないにもかかわらず取材に応じなければならないというのは、取材される側にとってはたいへんですよね。まあ、神保さんは以前、企業経営自体がたいへんなリスクであり、情報公開についてもその一つに含まれるという見解を示していらっしゃいますが。
神保 取材の申し込みがあれば、もしかすると反論の機会を与えられているのかもしれない。取材を拒否するということは、自分の言葉で、ジャーナリストがそれまで取材してきた自分の認識を直す機会を失うということにもつながるわけです。
アメリカでは、取材対象者に取材する努力をしたことが証明できれば、反論権を放棄したことになるので、たとえジャーナリストが書いた情報が間違っていたとしても、「悪意の不在」として名誉棄損は成立しないという考え方があります。つまり、事実であることを確認する努力をある程度すれば、間違いを犯すリスクはどんな人間にもあるので、それを恐れていては民主主義が成り立たないという、ある意味これは「民主主義を維持するためのリスクである」という考え方なんです。
運営者 非常によくわかります。ある意味ジャーナリストは非情ですよね。
神保 社会部なんかでは、僕の中では最初の3カ月ぐらいは葛藤があったことがあって、それは事故で子供を亡くした悲しみの中で普通の人に取材をすることもあるじゃないですか。でも、事故に遭った人は、ある意味「公人」になってしまうので、死んだ人が麻薬の売人であるというふうなこともあるんです。そうした事実は、記者の側は伏せようとはしないですよね。
なぜなら、われわれは一義的には、読者にサービスを提供しているというのが前提だからなんです。