ジャーナリズムが健全に機能していることの意味
運営者 それで繰り返しになりますが、、僕が一番悩んでいる問題は、「原稿を見せてくれないのなら取材を受けることはできません」という人が非常に多いということなんです。
この前随分まいったのが、2月半ばに足をくじいて、歩けなくなったんですけど、取材の日程が入っていたので杖にすがってうちの前の道路まで歩いていって、タクシーを拾って取材に出かけたわけです。なんせまともに歩けないんですから。
その先で、さっきみたいに取材申し込み書にははっきりと「事前検閲はできません」と書いてあるにもかかわらず、「やっぱりこれ原稿見せてもらえるんですよね」と言われて、「ああ、そういうことであれば、スミマセン、この話なかったことにしてください」とこちらから話を打ち切ってしまったことがあったんです。頭が痛いですよ。
相手は、「自分のお客さんのことが大切なので原稿が見られないとすると、客に対して責任を持つために、非常に限定した話し方しかできないんですけれど」と言うわけです。ですからま、根本的にジャーナリズムの意味や役割に対する不理解があるんです。彼は、それでも頭のいい人なので一生懸命、「ジャーナリストは自分に取材して得た情報を売って金を取るのだから、自分は利益供与者であるはずなのに、自分が原稿を見ることができないということはいったいどういうことか」と考えていましたが、やはり「ジャーナリストは取材対象者よりも読者の方に責任を持っているのだ」ということを理解するには至らなかったみたいなんです。「ジャーナリストも私益のために動いている」としか考えられないようでしたね。
でも、原稿を見せたら取材先の広告でしかないわけじゃないですか。そういう発想の人だと「メリットがあるから取材を受けたい」と思っている自分の側の利己的な態度にも、矛盾は感じないわけですよ。
それで、去年ネットベンチャーの取材をしていたときはそのように言われても、相手は学生からそのまんま会社を起して、ちょっと間違って世の中の脚光を浴びているような若者たちですから、「あのねあなた、もし株式公開したいと思っているんなら、ジャーナリストの役割というのは……」と、1時間も説教をするということが何回かありました。しかし、今また次回作を書くにあたって多くの企業に取材を申し込んで、あまりにもこの辺の不理解が甚だしいのに、本当に頭を抱えているんですよ、私は。
神保 ジャーナリズムが健全に機能しているということの意味については、ほとんど日本では理解されていません。そういう意味では本当にまだメディアに慣れていないということだと思いますね。
「じゃあ、あなたが今日読んだ新聞の記事や、テレビのニュースが、報道されている人が内容をあらかじめチェックして手を入れたり、承諾したりしたものであったとして、そういう新聞を読まされていて、どう思いますか」ということですよね。記者が自分の判断で書いたのではなく、書かれる側が、「これでどう?」と直した記事であったとすると、最終的には書かれても構わない情報しか出てこなくなってしまうわけです。そうすると、いったい何を信じていいんだかわからなくなってしまうじゃないですか。だから、記者の客観評価が重要なんです。
そんなことでは、もし批判的な記事がメディアに出ていたとしても、「それは批判される側になんらかの利益があるから出ている記事なんですよ」ということになって、まったく何を信じてよいのか分からない世界になっちゃうよね。