もし戦争&日本的経営なかりせば
織田 聡氏
運営者 そのように大勢の人間が、非常に効率的に各自の力を統合して、大きな力を発揮するという文化を、今までの日本企業は構築してきたわけですけど。
織田 それで、実は戦争の時には、参謀は兵隊が何をしようと意に介さないわけです。だけど、人が死ぬ戦争が終わって平時になったときに、「首」とか「命」というのが「絶対の価値」になってしまったという気がするんですよ、どこかで。
運営者 わかりますよ、それは、「戦争は嫌だ」ということが「平和主義」に転じて、それが「生命は尊い、だから、雇用は尊いんだ」という方向に徐々に転化していったたわけです。
でもそれはマネジメントが本来目指すべき方向ではない。ところが今日の日本では、そのコクーン幻想の方が主流になってしまった。
織田 おっしゃるとおり。結局何が起こったかと言うと、雇用は保証されるけれども、その雇用を保証してくれるありがたい組織を辞めた人間というのは2級市民、いや、2級どころか5級くらいになってしまっているわけです。「脱走兵」「脱藩者」という扱いですね。
運営者 それは秩序の破壊者なわけですから。
織田 よく、戦争を大きな境界として捉えた物の見方や話し方をする人が多いのですが、僕は日本人の行動というのは長期的に見てずっと変わっていないんじゃないかと思うんです。
日本的経営の源流というのは、やはり明治から大正初期にかけての軍隊の中にあったのではないかなと思います。で、確かに戦前の日本には今話題になっているような日本的企業はなかったのかもしれないけど、産業別統制会のような何らかの萌芽はあったのでは。
では、「日本的経営があったから日本の経済が成長したのかというと、そこにも疑問符がつきますね。ああいうものがなかった方が、もしかしたら日本の経済はもっともっと成長していたかもしれませんよ。
運営者 んーまあ、製造業が主要産業であった時代は、日本的経営でよかったのかもしれませんね。
織田 結局は、社会主義国の国家建設とおんなじですよ。国民の自由を奪っておいて、ひとつの目標を信じさせて、労働者は視界を遮られたられた馬のように走るしかないんですから。