個人としての社会への「価値提供」が富の源泉なのだ
織田 聡氏
織田 これでいくと、地べたに座っている若者たちには、富はいかないということになるわけです。
運営者 なぜなら、彼らの視界は、座っている分限られてしまっていて、せいぜい5メートル四方だったりするからですよ。
人間は仕事を通して社会につながっているし、もっと言えば、世界につながっていると思うんです。そこまで見はるかすことができないと。
だから人間的魅力というのは、まさにそこを理解しているかどうか。自分自身の社会観を構築しているかどうか、そこまでつながっているわけですが、その途中で必ずや「公的なるもの」の概念を獲得するはずなんです。
そうすると他人との関係の構築というのも、「自分の一挙手一投足を相手がどのように受け止めるだろうか」ということを前提に考えて行動し、仕事をやっていかなければならないはずなんです。
それは、親しい仲であれば別だと思いますよ。お互い特殊な行動のルールを理解しているわけですから。だけど例えば仕事のパートナであったり、あるいは初めて会った相手であったり、ましてや顧客であったりした場合には、最大限相手のことを考えつつ行動しなければならない。細心の注意を払わなければならないはずなんですけどね。今もうそれができる人というのが少なくなってきている。
織田 それは、僕たちの上の団塊の世代に大きな責任があるような気がするのですが。
運営者 まあ、団塊の世代のせいにするのは簡単なのですが、本当は本人が世の中を歩いて行くときにいろいろと障害物にゴツゴツぶつかって、「自分はなぜぶつかるんだろう」と考えたときに、「ああ、こいうふうにしなければならないんだ」と自分で自分を補修していくプロセスが当たり前だと思うんです。
規範というのは、「普通に道を歩くためのルール」だと思うんです。それすら身につけていない人間は禁足にした方が良いのかもしれない。海外渡航禁止とかね。
道を歩くためのルールは、道を歩きながら自分で身につけるということ。パソコンだって自分で自分を修復する機能が付いているわけでしょう。
織田 まあ、親と学校の教育が、「自己愛」を増殖させてしまっていますからね。
運営者 「自己愛」を突き詰めていけば、相手のことを考えるようになるはずなのですが。そのほうが、自分の自己愛を全くすることができるわけですから。
織田 時間を置いて時差的に返ってくる自己愛ですね。でもそれはインスタントに得られるメリットではないから、今の子供たちには耐えられないのでしょう。
運営者 だからガキだというんです。そもそも、贈与というのは文化人類学では「時期をずらした交換のこと」ですからね。あくまで価値の互酬的交換なんです。
面白いこと言っている人がいました。「日本人は大人になるのが遅い」というんですよ。まあ僕もたしかにそう思う。30歳くらいにならないとパートナーとしては頼れないですね。
織田 アメリカ人と比べると雲泥の差ですよ。ほんとに大人になるのが遅いと思います。少年法改正どころの騒ぎではなく、「選挙権も25歳からにしろ」と思いますよ。
日本は人口が多過ぎて、国の中で自己完結している。だからそういうレベルの人間が多いような気がします。自己完結したビジネスが実行可能になっていますからね。