「文章」の機能をめぐる断章
織田 聡氏
運営者 なるほど、ビジネスマンの大半は文書を書かないんですね。
でも、「営業日報の中でも表現を追求しよう」と普通ならば考えるのではないかと思うのですが。ちょっと昨日とは違う書き方をするとか、同じような表現は使わないとか。
こういうことなんですよ、日報を書くということは、それを読む人がいるわけでしょう。ということは、「日報を読む人が面白く思えるように書こう」と考えると。つまり相手のことを考えれば、そういう工夫をするはずですよね。
織田 いやいや、そんなこと考えてないですよ。みんなルーティン化しています。
運営者 それじゃあね、読む方も身を入れて読まないでしょう。そうするとその時点で関係の構築が止まってしまうわけです。
逆にお互いにメリットを得られる関係をつくるためには、まず最初は情報の出し手がサービスすることから始まるわけです。で相手が何かレスを返してくると。そこからラポールを架け始めるわけです。で、いろんな情報の行き来が始まり、その中から価値の源泉である「知」が創出されてくる、という過程があるわけではないですか。それをグループウエアにして情報共有を図っていくわけです。そこでつくり出されてきた知恵によってライバル企業をやっつけることができるわけでしょう。
織田 勝っている企業はそれを実際やってますね。
運営者 日報の表現を工夫するということはその第一歩だと僕は思うんです。だからものを考えるということと、文章を書くということと、相手を楽しませるということは非常に密接に関連しているはずなんです。
織田 そうですね。相手にわかる文章を書くことによって、自分自身も報告している事象に対する理解が進むわけです。
ところが日本語というのは非常に便利な言葉で、自分で言っていてわからなくなってしまうところがあるんです。で、あいまいな表現ながらそれを報告として聞いている方もわかった気になってしまうわけです。でも実際は言っている本人も聞いている方もホントのところが分かっていないということがよくあります。
運営者 だって、主語がなくても済むわけですから、これくらい責任回避に適した言葉も珍しいのでは。相手が悪いのか、こちらが悪いのかすらわからないという言葉なんですから。それじゃあ、レポートにならないではないですか。
織田 だから僕は、なんでも証拠として残るようにすぐ横にいる人間に対しても、なるべくe-mailでやり取りをして口頭で補足することにようにしています。それによってやり取りの証拠が残るということと、自分自身の中での優先順位をつけることができるわけです。言葉で言った方が確かに手っ取り早い場合もあるのですが、でも文章化をすると無茶苦茶な業務指示をするようなことが避けられる。
運営者 おもしろいことがありますよ、
店頭公開審査の前に作る「2の部」というのがあるじゃないですか。あれ、各項目について書き込んでいくのですが、書き込みながら社内の内部牽制をつくっていくわけです。ということは、「2の部」の論理性に社内の組織や社内ルールの方を合わせていく作業なんですね。実態を文章の論理の方に合わせることによって、サブスタンスを担保していくことができるわけです。まさにそういう機能を文書は持っている。
マニュアルもそうだし、例えば『歩兵操典』なんかもそうかもしれないけど、型にはめることにより実際に機能する組織をつくることができるわけでして、マニュアルというのはあくまでも活きている実態が形式化されたものであるということです。
織田 『歩兵操典』とか『作戦要務令』とか、みんなが道しるべとして、北極星として思い描くようなものが、カリスマに率いられた小集団の段階を超えると必要になってくるわけですね。