日々これ鍛錬、知的好奇心を満たすべし
織田 聡氏
織田 「自分が付加できる価値というのは何か」ということを、常に感覚を研ぎ澄ませて考えることができるかどうか。それを一人一人が考えなければならないですよ。
運営者 それを考えている人というのは、われわれが何か言わなくてもいつも考えているし、それが今現在もわからない人というのは、何回言ってもやっぱり理解できないと思うんですよね。僕は強烈にそう思いますよ。そういう人は、会社組織の中でもちゃんとした仕事はできないし、ビジネスマンとしては認められないし、ましてや「いい地位に就きたい」などということは考えてはならないと思うんです。
織田 そういう人には野心はないのでは。既得権益を守ることには執着しても、上の立場や、もっと価値ある立場を目指そうという気概はないような気がしますが。
運営者 とんでもない、できない人に限って、その反動で地位に対する執着があるんですよ。物の価値がわかっている人は、さして意味のない地位などには執着しません。だから組織から離れることも平気なんです。
立場と仕事が分離されているからそう考えられるわけです。いい仕事というのは、常に毎回毎回挑戦を繰り返して向上していくという気持ちがなければ絶対にできないものだと思いますよ。
織田 日々これ鍛錬です。これは70歳になっても80歳なっても変わらないでしょう。
好奇心を維持し続けるというのは、ある意味では側から見てると幼稚に見えるかもしれません。いろんなことに首を突っ込んでしまうわけですから。少なくとも落ち着いていないように見えるでしょうね。でも僕自身は、全然どっしりしているように思われたくはないし、僕自身の生き方は少数派かもしれないけれど、少数派であってほしくはないと思うんです。
運営者 そういう人間がある一定数以上育ってきて、彼らがコラボレーションして、その中から社会を進化させる新たな「知」が生み出されてくると僕は思っています。
国際化時代に直面したわれわれが「劣った社会システムだ」と論難している江戸時代の幕藩体制だって、藩ごとに個性を保有していたがために、全国300の藩の中で独自な文化がいろいろ花咲きました。それらが衝突を繰り返すことが明治維新の呼び水にもなったのだと思います。そう考えたら、現代のわれわれが個性をぶつけ合ってコラボレーションを行い、新たな文化をつくることができないということはあり得ないと思うんです。文化をつくるということはかなり高度な営みではあります。僕がこのサイトをつくっているのも、微力ながら「文化をつくっている」つもりなんです。
シンガポールにはね、文学はないんですよ。どうしてかというと人口が400万人程度しかいないから、読者の数が少なくて文学作品を発表しても読んでくれる人がいないからですよ。1冊2冊あっても、それで文壇ができなければ、文化としての文学界が成立しえないわけです。だから、日本では「文芸誌が赤字で廃刊寸前だ」とよく言われますが、文学や文壇があるということだけでも実はすごく恵まれていることではあるんです。
文化というと偉そうに聞こえますが、でも人が自立して行動して、知恵を蓄えていって、人々と交流すれば、その中から必ずできてくるものなんです。そうしてあるコミュニティーの中でできあがってきた文化が他の文化と触れ合うことによってさらに重層的で豊かな文化を作り上げていくはずなんです。
織田 その前提としては、違う文化の人たちが言うことを理解しようという心構えがあるかどうかが必要になってきますよね。
運営者 今のわれわれがやらなければならないのは、これだけの人口がある日本に、その中でべったりとしたひとつの大衆文化が成立している市場以外に、こういったサイトによって、1つの認識を共有していく、あるいはそのような集団がまた別の集団と接触してインテリ同士の集まりが新しい文化をつくいく。そういう営みが必要だと僕は思っているんです。僕は、われわれが薄っぺらな大衆文化は毒されて、自らの存立基盤を失いつつあるのではないかということを非常に危惧してしまいます。それを避けるためには、まず第一に、各々のプレイヤーが自らの知的好奇心を満たすための活動をし続けなければならないでしょう。