メディアは「なぜ書く権利があるのか」説明できるか
三神 知識サービスは先進諸国の主要な経済活動を支える産業になっていく、という流れはOECDのKnowledge-Based Economyのレポートでも指摘されていますが、こうした知識サービスの世界ではコメントの一言一句が商品です。視点や分析でフィーを得て、その品質で次の仕事が来るか来ないか左右される彼らからすると、ここが曖昧だとリスクが高いと感じるばかりか、理解し難い。
メディア側からすると、単なる業界慣行の違いで、先方の広報担当者が理解するべきだ、というのが現状のコンセンサスではないかと思いますが、知識サービス業としての生き残りに軸が移るのであれば、責任範囲の経験度によってアシスタント、ジュニア、シニア、エグゼクティブといったプロ度の明示をする発想が他の知識サービス業のように出てくるかもしれません。
こうした流れに即していくと、署名記事は文書にサインをするのに似ています。知識サービスの世界で名前を開示するということは訴訟リスクを引き受ける代表者が誰かという責任開示の意味がある。ですから、自分の名前を出すというのは露出を喜ぶ感覚とは違う次元で、重みがあり取り扱いに慎重さが必要になってくるわけです。
そして同時に、編集権というのがいったい何で、編集という専門性はどのような信頼性担保のワークフローをふむことなのか、明らかにする必要が出てくる。
情報信頼性評価の一例でリーガルライティングの話に触れましたが、法律事務所の例がわかりやすいかもしれません。
パートナーがいて、シニアアソシエイトがいてアソシエイトがいるという組織構造になっていますが、だれが契約書のどこを精査したのか、どこまで責任を追うのかを明確に認識した上でやっている。誤りや違う解釈があった場合に、限りなく原典までさかのぼって修正していくことが可能な体制にしてある。
これは法律を扱う人々がとる体制ですから、文書作成に対する態度の中では最も厳格な部類かもしれません。表現や用語もある程度テンプレート化さている世界だから可能なことだとは思います。
一方で、メディアの発信する記事や放送原稿といった文書は、これに比べて表現や用語の自由度が広いですし、スピードも要求されます。その限界があるにも関わらず、世の中に対する影響力が極めて大きい。この折り合いをどうつけているのか。どの程度のワークフローを踏んでいれば責任解除がされると考えたらよいのか。
運営者 そういうリーガル的な考え方は取り入れられるはずですね。
三神 情報発信産業として存在している根拠は、免許があるから、といった根拠ではなくて何に求められるのか、と言い換えてもいいかもしれません。
なぜ書く権利があるのか、発信する権利があるのか、編集する権利があるのか、このあたりが取材される側に認知されていない。厳格に中立性を守っている、事象を横断的に見て社会のフレームワークを適時に提供できる専門性がある、圧倒的な情報の発掘力と選別眼を持つ、短時間でポイントがわかるような伝達ノウハウを持っている、といったことが業界の自己認識だと思うのですが、そのワークフローが整理・体系化されていなかったり、他の業界でプロと認められる品質にまで高まっていなかったりする可能性がある。