われわれがよって立つ「資本主義」の根本原理
運営者 われわれは、学校で「カイシャとは何か」ということを勉強しません。その結果、就職してしまえばその会社の所有権すら共有するという幻想を平気で持っている人が非常に多いと思うんです。これは単なる勘違いとしか言いようがないのですが、しかし彼らは主流派意識すら持っている。
本来は、経営者以下は、株主から資本を委託されている受託者にすぎないわけです。しかしこのへんの意識があまりにも希薄で、ここのところが日本の会社をおかしくしている原因なんだろうなと思うのですが。
三ツ谷 日本は江戸時代まではずっと共同体的な社会であったわけで、封建制からいきなり資本主義社会に移ったわけですが、封建制の仕組みや意識が今日にそのまま残ってきているというのが現実の問題だと思います。鴎外や漱石の問題意識は実はそのまま我々の問題でもある、彼等の射程に我々もいるということで、資本主義を支える個人というものが確立していませんよね。
運営者 今のお話の中にも、幾つかの要素が入っていると思うのですが、そこから少し砕いてお話いただくとすると、資本主義社会の中におけるカイシャというものは、一体だれのものだと考えれば良いのでしょうか。
三ツ谷 資本主義に対するアングロサクソンの考え方と、ドイツのような大陸欧州の考え方、それから西洋社会が浸食していって、それに対応せざるを得なかった日本のような国のカイシャに対するとらえ方は、それぞれ分けて考える必要があると思います。
でも、最終的にはアングロサクソンの考え方に近づいていくべきだと私は思います。その考え方において、株式会社というのはだれのためにあるのかというと、理念的には株主のためにあるという答えで間違いがないと思います。
それが見えにくくなっている理由を考えましょう。起業当初は所有者と経営をしている人間が同じであるわけですから、株主重視を標榜するイギリスでもアメリカでもやはりファミリーが会社をスタートするところからきているわけです。会社の規模が大きくなり、工業化社会で巨大な設備投資が必要とされるようになると、官僚機構をつくらなければ全く会社が回らなくなってきます。そこで、やがて所有と経営は分離することになります。
運営者 分かれるわけですね。つまり所有者の方は変わらないくて、元々のファミリーの持ち株がほとんどを占めているわけですが、経営の方は専門家が登場すると。
三ツ谷 創業者は基本的にカリスマ的なリーダーであることが多いと思います。彼は個人的な野心、シュンペータの言葉を借りれば「自身の帝国」を作りたいと言う欲求にそって限りなく規模を拡大していく。「規模の利益」を獲得しなければ「帝国」は築けない訳ですから。ところが、代が替わると、資本を増殖させていくという盲目的な仕組みで会社は動き始める訳です。
運営者 企業規模の拡大の動機付けというのは、資本主義のシステムにそもそもビルトインされているものなわけですね。
三ツ谷 そうです。最初にインプットされているものです。ここをちゃんと押さえなければなりません。今の段階では盲目的な拡大という言い方が正しいと思いますが、それがすべての原動力となって資本主義は動いているわけです。そしてだれもが、自分が自覚的に選びとったわけではないけれども、この資本主義の理念の中ですべてが動いていて、勢いそれに押し流されているというのが実際のところだと思います。
運営者 非常に良くわかります。