カイシャは誰のものか
三ツ谷 で、実際に資本と経営が分離されてきたところで、では会社はだれのものか、誰が力を持っているのかという仕組みの理解が難しなってくるわけです。
例えばよくモルガンとかロックフェラーのような大財閥がすべてを支配しているのではないかというような言説を振り回す人も見受けられますが、あれはちょっと違うんじゃないかなあという気がします。そもそも一番最初は、岩崎弥太郎とかモルガンのようなタイプの人間が資本を増殖させなければ資本主義は動きださないのです。
運営者 面白い。それはその通りですね。
三ツ谷 でも、工業化が進んできた段階ではすべてを創業家が支配するということはできないですよ。たまたまモルガンが事業を始めただけであって、ではその機構を動かしている人が、「モルガン家のために」という意識を持っているかというと、それは違うと思います。
運営者 そうするとその駆動力というのは、資本主義のそもそも最初からある、資本を増殖させて利潤を上げるという動機だけなわけですね。
三ツ谷 そうです。
で、資本と経営が分離してきた段階においては、所有者ではない経営者というのは立場が非常に弱いわけです。その経営者の立場を保証するものは何かというと、いまや官僚的な組織となった企業の利潤を拡大することができる能力ということになるでしょう。そしてその能力を基盤に権力機構のトップに立つという形で、自分の地位を保全するわけです。番頭がトップに立ち、その番頭の子飼いの人間に代替わりをしていくという仕組みができあがるわけですが、そういう仕組みの中では、従業員の利益を代表するようにならざるを得ないという力学が必ず働いてくることになります。
運営者 うーん。
三ツ谷 それと、日本のカイシャというのは、資本主義を途中から移植したという関係もあって、創業者の伝記などを読んでみると非常に国士的な発想をしている人が多いと思います。
武士階級が始めた会社の場合は、日本の国の危機に際して、「自分は商業の分野で役割を果たすことができるならば、貿易をやって国を富ませ、欧米に追いつきたい」というような国を思う気持ちがあって、それが企業文化に色濃く残っていたりします。
また、攘夷を主張していた人たちは、結局外国に勝つことができなかったために、攘夷の旗を降ろして開国したという引け目があるのですが、長州が中心となった陸軍などにはそういった屈折したものが非常に純粋な形で残ってしまったように思います。
運営者 理解できます。
三ツ谷 三菱では、岩崎小弥太の言葉として、「所期奉公」という言葉があります。これは、自分が勤めを果たして、持ち場を守ることによって、社会に対しお役に立つことができるというものなのですがって、この場合の社会というのは、天皇を中心とした大日本帝国全体に対してという意味合いがあるのです。
運営者 確かに、岩崎弥太郎は海援隊の精神も汲んでいるんですよね。それはまさに国士的な発想であって。それが受け継がれた風土の中でもなお番頭は徐々に官僚化していって……。