●高度成長モデルの「制度の補完性」
次に、「日本社会は高度成長期に非常に完成度の高いシステムを作り上げることに成功したから」という点を挙げることができます。
高度成長期の日本では、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と外国人が目を見張るくらいに、官僚と企業と国民が頑張って1つの完成したシステムを作っていました。それは、あえて言うと、トータルでバランスを取るシステムだったと思います。というのは、「江戸の仇を長崎で打つ」という霞ヶ関用語がありますが、コーディネーターとしての役所が目を配って、「この案件ではこの企業に泣いてもらって、そのかわり次回はちゃんと利益を配分する」というふうに、全体でバランスさせていたわけです。それにより、非常にお互いの利益が錯綜した完成度の高いシステムができあがったのです。
ここで、経済学の用語として、「制度の補完性」という言葉があります。わが国では、すべての制度は非常に巧妙にからまっていて、例えば「公共事業の入札制度は、一部の特権的な人たちが利益を得ているから改善すべきだ」ということになったときに、「いや、公共事業の裏では選挙資金がすごくたくさん動いている、それは選挙にお金がかかるからそうなっているんだ。だから選挙制度を変えなければならない」ということになり、選挙制度を変えるためには国と地方の再分配の問題がクローズアップされるというふうに堂々巡りをすることになるのです。。
つまり、非常に複雑に絡み合った完成度の高いシステムでは、制度を変えようと思っても補完的なので、連鎖的にそれに関連する全部の制度を変えなければみんなが納得しないわけです。
だから、最初に変えようと思ったひとつのことすら変えられないことになってしまいます。、80年代以後、行政改革とか構造改革とか、長い間議論が続いていますが、結局問題の大本には切り込めていません。それは、この「制度の補完性」のためなです。
しかし制度の補完性には、まったく逆の面もあのです。お互いが密接に絡み合っているわけですから、ひとつのことをを変えることができれば、他の総てもオセロゲームの駒がひっくり返るように一挙に変わる可能性があるということです。
明治維新、戦後の民主改革を考えてみるとおわかりのように、日本のいままでの社会変革というのは、まさにそのようにして起きてきました。だから「われわれは急激な変化は好みません、少しずつ改良をして、漸進的に、じんわりと平和裡に変わるはです」とおっしゃる人もいますがそれは錯覚で、変革は下手くそなんだけど、変わるときには大胆に変わる国であるということなのでしょう。