●お上と国民の持たれ合い
もう一つ、国民が「これは断固として改革せざるを得ない」という現状認識を持たない理由として、やはり役所の側には「寄らしむべし、知らしむべからず」という発想があったことは否めません。
以前は、世界経済はそんなにグローバル化されていなかったし、経済そのものに大きな成長のポテンシャルがあったので、少々まずいことがあったとしても経済のパイが大きくなる中ですべて利益調整して解決されてされていったので、制度の欠陥は顕在化しませんでした。
何か困ったことが起こると、国民はお上に駆け込んで「何とかしろ」と、解決を求めました。「こうしてほしい」と要望したのではなくて、「何とかしろ」と言ったところがポイントです。行政側は利益調整の微妙なバランスをとることにより、「なんとかすること」に対応していったわけです。その結果が制度の複雑化であり、財政の破たんだと言えるでしょう。このような事態を招いた大きな責任は、何か問題が起こるとまず政府の責任を追及したメディアと冷戦時代の野党であったと指摘できるのではないでしょうか。少なくとも彼らは、「政府は何もするな」とは言わなかったのです。
例えば、現状では破綻に瀕している財政に関して何が起こったかと申しますと、行政は前述した「江戸長崎」の話のように、非常に細かいところで利害のバランスを取ろうとするので、予算や財政投融資といった制度が恐ろしく細かく複雑になってしまいました。それにつれて、政治家にも新聞記者にも理解できないし、実は大蔵官僚自身にも全体像が把握できていない、従って国民にはとても理解することができないほどのものになってしまったわけです。ところが当局は、「国民は何も分かっていない。やはりわれわれがやらねば」と勘違いをして、財政の専門家として自分たちの裁量を大きくしていったのです。わが国には「財政白書」は存在しないのです。
しかし、「民主主義社会においては、複雑な制度は悪い制度」なのです。制度を民主的かつ多元的にチェックできないと困ったことが起こってしまうということは、1990年代にわれわれがフロンティアに立ってから初めて現実に経験したわけです。
「小さな政府か大きな政府がよいのか」という議論について、日本人が大きな政府を求めるのはまさにメンタリティーに由来することだと思います。
それは「水戸黄門」に象徴されると思うのですが、水戸黄門のドラマの中では常に小さくて悪い官がいるのです。たいてい悪代官なのですが。その悪い官を、大きくてよい官である副将軍がやっつける、これは結局お上に頼っていることに変わりがなくて、ロビンフッドがやっつけてくれるわけではないのです。日本にもネズミ小僧はいましたが、ネズミ小僧は悪代官には勝てないのです。