●公共精神が希薄である
それから日本人は、コミュニティとか地域とか国家という、自分の属する組織よりも公的な存在に対する意識が希薄であるという指摘がありました。これもまた意識の問題であると同時に制度の問題でなのです。
「公」と「私」という世界を考えると、私的な資源配分は「私」の世界で行えばいいのです。しかし、企業では配分できない安全保障や環境と言ったものは「公」の世界で資源配分する必要があります。
これに対して「官」と「民」という存在がそれを担う主体としてあるのですが、、今までのところほとんど公的なの部分は「官」が独占してきました。民間は公的な部分にタッチできなかったので、それを担う主体であるという意識が非常に薄くなってしまったのではないでしょうか。しかしこれから「公」の部分もどんどんNPOや企業、個人などの民間が負担していく必要が出てくるでしょう。
小さな政府にするということは、まさに公的な部分もどんどん民間が担うということを意味するわけです。我々自身がやらなくてはならないのです。
陪審制度があるアメリカ人は「裁判になったときに仲間に裁かれたのなら仕方がない」とあきらめるのだそうです。これに対して日本人には、「ちゃんとした立派な裁判官にさばいてもらいたい」というメンタリティーがあります。そこが、なかなか日本人な公的な部分を自ら担うことができないという意識の根源のような気がしてなりません。「コミュニティは自分たちの手で作っていくものだ」という意識は未だに芽生えていないのかもしれません。
そうした公的な概念の中で、最大のものが「地球益」といわれるものです。グリーンコンシューマという消費者は、地球が限界にきているということから、地球全体の利益を考え敢えて高い電気料金を負担して環境に優しいエネルギーを整備しようとする「行動する消費者」のことです。現在の若い人たちは、知らしむべからずという政府に対するうさんくささを感じているため、国益などという概念にはシラケていますが、国益などよりもこの「地球益」についてたいへん深い理解を示しています。