野田秀樹が初めてオペラを演出したことで話題となった《マクベス》公演の初日を観ました。結論から言うと、少し肩に力が入っている感じがするものの、なかなか面白い、楽しめる公演であったと思います。
「少し肩に力がはいった」という印象は、初日で出演者の演技や歌唱が多少硬いということもあるのでしょうが、やはり野田演出、特にその独特な「魔女」の存在が目立ちすぎる、ということからも来ているのだと思います。今回の演出では、魔女たちは、黒いヴェールをかぶった頭のうえに髑髏を乗せ、腕の先にも骸骨の腕を露出させています。このため手足がひょろひょろと長い骸骨が浮遊しているように見えます。
この魔女たちには、本来の女声歌手のひとびと以外に、役者やダンサーが扮するものも混じっており、魔女の歌唱シーンが無い場面にも、頻繁に登場して、主人公の運命の糸を操る存在であることを主張するのです。例えば、マクベスがダンカン王を殺害するために寝所に忍び込むときに骸骨たちが先導するように前を歩き、帰りには後から出てきますが、その白骨の手が赤く染まっています。また、バンクォー暗殺の場面では、息子のフリーアンスを取り囲んで刺客たちからかくまう動作をします。魔女の合唱のシーン以外は、登場人物たちには見えないというお約束の黒衣(くろご)のように振舞いますが、このオペラも原作の芝居もよく知らない観客の場合は、どの魔女が「見える存在」でどの魔女が「見えない」存在なのか、よくわからずにとまどったかもしれません。
とにかく骸骨というのは死者か死神の象徴ですから、いわゆる「魔女」、すなわち予知能力を持つ化外のモノども、とは不気味さや怖さの性質が違うように感じます。また、中性化した骸骨では、オンナであることの底意地の悪さ、禍禍しさ、男の運命を翻弄するチカラというものが表現しきれない憾みがあります。しかしながら、プログラムを読むと野田秀樹の意図はまさに「魔女とは踏み荒らされた土地の下に棲む戦場の死者だ」という「死者」のイメージを強調することにあるのでした。
「なぜ魔女は、マクベスの運命を予言できるのか。それは戦場の死者だからなのです。彼らだけが権力をめぐって血を流す者の運命を語る資格があるのです。」「装置としては、荒野に巨大な王冠か一個あり、その下に眠っている骸骨たちが、その王冠をめぐるお話を語っている、それが《マクベス》だという解釈です。」
これだけユニークな解釈を持ち込み、メッセージとして発信することが、オペラの演出として適当であるかどうか、については賛否両論あるでしょう。カーテンコールで野田氏に対して「ブー」が出たこともやむを得ないかも知れません。しかし、時代設定や服装を極端に変えたりする「新演出」よりは、ずっと劇の本質を見据えた、わかりやすい演出であったと思います。
また堀尾幸男の舞台美術は、骸骨たちが湧き出てくる(おそらくは古戦場の)野原を、黄色いバラが咲き乱れる美しい花畑にしてしまうなど、陰鬱なスコットランドの荒野とはおよそかけ離れた意表をつく装置で視覚的に楽しませてくれるものでした。そして「巨大な王冠」は、解説を読むまで王冠だとは気がつきませんでしたが、とにかくいくつかの階段がついた円筒形の足場が回り舞台の上に載っていて、それが回転したり開いたりすることによっておこなわれる場面転換はなかなか見事でした。
特に、第4幕第1場の難民たちの合唱が、この回転する装置を登ったり降りたりしながら歩きつづける姿で歌われたのは、まさに流浪の民の視覚化といえ、実に効果的でした。
とにかく、2001年の藤原オペラにおけるヘニング・ブロックハウスの演出とヨゼフ・スヴォボダの美術(オリジナルはローマ歌劇場のプロダクション)、2003年のスカラ来日公演のグレアム・ヴィック演出とマリア・ビヨルンソンの美術、そして今回の公演と、このところ日本で上演された《マクベス》はみなそれぞれに工夫を凝らしたプロダクションになっていて、とても楽しめました。やはり、シェークスピアの原作ということで、演出家は張り切るのでしょうか。残念だったのは、ローマとスカラのプロダクションは、それぞれマリア・マダウとロン・ハウエルという優れた振付師によるバレーも良かったのですが、今回はヴェルディのバレー音楽の中でも一番優れている1865年パリ版のバレーシーンがカットされていたことです。
さて、肝心の音楽についての感想に移りましょう。まずは、このオペラのキーロールであるマクベス夫人を歌った、ハンガリー出身のソプラノ、ゲオルギーナ・ルカーチについて。重くて強い声を持ち、この役に必要な凄みと迫力は充分ありました。2001年の藤原オペラ、2003年のスカラ座来日公演の両方でこの役を歌ったパオレッタ・マッロークと比べると、アジリタの切れはいまひとつですが、声の重さと強さは上であると思います。現在のこの役を歌わせたらベストと思われるマリア・グレギーナに比べるとやはり「荒っぽさ」と「力み」が目立ってしまうところがありますが、スカラ座でグレギーナの裏を歌っていたシンシア・マクリスよりは上でしょう。
野田秀樹の演出は、夫人の気の強さ、ヒステリックさを強調するものでしたが、うまくそうした性格を表現していたと思います。このルカーチのカーテンコールに「ブー」を浴びせる手合いがいましたが、これだけの声がなかなか得がたいものであることをわかっていない人であるように思います。どうも日本の会場では、天然記念物である「重い声」に対する感動と敬意の度合いが低いような気がしてなりません。特に、レディ・マクベスは美しく歌えばいいってものじゃないんだぜ、お兄さん。
標題役は、ミュンヘンのベテラン・バリトン、ヴォルフガング・ブレンデル。最初は少し響きが安定せず「もう衰えたのかな」と思わせましたが、喉が暖まってくるとさすがで、野心家だが気が小さい恐妻家というイメージを好演、第4幕のアリアも柔らかいフレージングでしみじみと聴かせてくれました。
バンクォーの妻屋秀和は、よく通る伸びのあるバスで、イタリア語の発音も明瞭、健闘していました。これなら外国人歌手を連れてくる必要は全く無いと言っていいでしょう。
マクダフはミロスラフ・ドヴォルスキー。兄(?)のペテルよりも品のいい歌い方が好感を持てる強めのリリコ。しかし、このあたりのクラスなら、たとえば市原多朗をはじめとして日本人で十分遜色のないテノールがいるはず。シングルキャストにして、わざわざ外タレを呼んで来るノヴォラツキー芸術監督のやり方には、やはり疑問を覚えます。彼の就任にあったってのゴタゴタがあらためて思いだされます。
さらに疑問をおぼえる起用が、指揮者のミゲル・ゴメス=マルティネスです。手堅い指揮ぶりではあるものの、日本人指揮者を差し置いてわざわざ招聘するほどの腕前も将来性も感じられません。ムーティと比べるのは酷であるとしても、藤原オペラで指揮をしたレナート・パルンボの方が、この曲の聴かせどころである第1幕や第2幕のフィナーレのコンチェルタートでは、ずっと泣かせてくれました。合唱の声がよく出ていただけに残念です。また、マクベスと夫人の2重唱の後半がやたらと速くなるテンポの設定にも疑問があります。あまり声に敏捷性があるとはいえないふたりのソリストが、とても歌いにくそうでした。