30年来のヴェルディ・ファンである私にとって、2003年は、とても印象深い年になりました。年間に4つもの《オテッロ》を生のオペラ公演で観ることができたからです。しかも日本国内で3つも、です。これが《ラ・トラヴィアータ》なら、十分あり得ることかも知れませんが、《オテッロ》となると、異例のことと思います。2002年7月のワシントン・オペラ来日公演も加えると、最近の《オテッロ》頻出ぶりには、驚かざるを得ません。これも、ヴェルディ・イヤーの余波なのでしょうか。
2003年に私が観た公演は下記のとおりです。
上演月日 場所 オテッロ イアーゴ デスデーモナ 指揮者
1/10 東京文化会館 クーラ クルシェフスキ イヴェーリ カスプシク
3/14 MET(ニューヨーク) ガルージン プティリン エスペリアン ゲルギエフ
6/10 新国立劇場 ヨハンソン ポンス マッツァーリア 菊池彦典
9/14 NHKホール レンダル ヌッチ イヴェーリ ムーティ
あらためて、こうして表にして思い返してみると、面白いと思ったことがあります。オテッロは全部違う歌手が歌っているのに対し、デズデーモナの配役がダブっていることです。至難の役オテッロを持ち役にするテノールが,世界にそう沢山いるとは思えません。それに比べると、デズデーモナを歌えるソプラノは、いくらでもいると考えられるからです。しかしも結果は、レンダルを除く3人のテノールは本当に素晴らしく、強い感銘を受けたのに対し、3人のデズデーモナは「まずまず」というレベルでした。
《トスカの接吻》という映画の中で、ヴェルディが建てた「音楽家憩いの家」で余生を送る往年のプリマドンナが、「Desdemona ? facile. (デスデーモナは易しいのよ)」と語るシーンが、私の頭にはこびりついてしまっています。しかし、もしかしたらこの言葉は逆説なのかも知れません。超高音もアジリタもないこの役は、技術的には確かに易しく、しかもヴェルディが書いた音楽は、プロの歌手ならば誰でも、そこそこの感動を呼ぶだけの効果は出せるある素晴らしいものです。しかし、そこに落とし穴があるようです。苦悩する英雄オテッロ、奸智をほしいままにする邪悪なイアーゴに対し、無邪気で無防備、運命を甘受するデズデーモナは、人物として弱々しい存在です。高度なテクニックも、強烈な性格表現もみせるチャンスがありません。そこでどうやって磨き上げた「芸」をみせ、大向こうをうならせるることができるのか。これは実は、大変なことなのかも知れません。
さて、それに対して、いかにも至難で、選ばれた声を持つテノールにしか歌うことが許されないのがオテッロの役です。
1976年にはじまったゼッフィレッリ演出から2001年の新プロダクションに到るまでの25年間、「総本山」スカラ座でのオテッロ上演タイトル・ロールの「表」キャストは常にプラシド・ドミンゴが占めていました。この事実をもってしても、彼が「20世紀最後の四半世紀を代表するオテッロ」であったことは確かである、といえましょう。
デル・モナコやヴィナイのような本格的なドランマーティコの声を持たないので、ドミンゴは本物のオテッロ歌手ではない、という見方もあります。しかし、1981年のスカラ来日公演の時、カルロス・クライバー指揮、ゼッフィレッリ演出という極めつけのプロダクションでみせてくれたドミンゴの歌唱は、やはり鳥肌が立つほど素晴らしかったし、伝統的なオテッロ像よりも繊細で彫琢の深い人物を作り出していた、と私は思っています。残念ながらそのドミンゴも加齢による衰えは隠し切れず、2002年7月のワシントン・オペラ来日公演は、彼の時代は終わりつつあることを感じさせるものでした。
ところがその翌年、1月のポーランド国立歌劇場来日公演でのホセ・クーラ、3月のニューヨークでのウラジーミル・ガルージン、6月の新国立劇場でのクリスチャン・ヨハンソンと、立て続けに、力強い立派なオテッロを聴くことができたのです。3人とも、少なくともワシンントン・オペラ来日公演時のドミンゴよりは、凄いと感じました。そして、今やオテッロを歌える歌手が世界中にごろごろいるのではないか、という錯覚さえ覚えたのですが、それはやはり錯覚であることが、9月のスカラ座来日公演で改めて思い知らされることになりました。
簡単に4つの公演を振り返ってみたい、と思います。
1・ポーランド国立歌劇場公演《オテッロ》(2003年1月10日東京文化会館)
ワルシャワのテアトル・ヴィエルキの来日公演は2年ぶり2度目、本公演の目玉クーラのオテッロは、果たせるかな、見事なもので、十分楽しめる公演でした。マウリシュ・トレリンスキ演出、ボリス・フォルティン・クドリチカ美術による刺激的な舞台に、今が旬のスター歌手によるタイトル・ロールを一点豪華主義のように配するというやり方は、中小歌劇場のひとつのいき方であるように思います。
プログラムの解説によると「音楽とは抽象的なものだからそれに相応しいのは抽象的な上演だ」というのがトレリンスキの主張とのこと。たしかに、ヴェネチアにもキプロスにも行ったことがないシェークスピアが創作した「オセロー」は、実際にはあり得ないムーア人総督の物語という純然たる虚構の世界です。しかし、トレリンスキの演出は、単なる抽象ではなく、一筋縄でいきません。面白い場面は枚挙にいとまがないのですが、ひとつだけ例にあげると、ヤーゴがカッシオを酔わせるために歌う乾杯の歌の場面。舞台上手にカルーセル(回転木馬)が登場し、脇に乗ったダンサーたちが足で床を蹴ってそれを回しています。ヤーゴが先にそれに乗り乾杯の歌を歌います。次にカッシオが乗りこみ、さらにはカルーセルの屋根の上にあがって歌います。まさに乗せられてゆくカッシオの酩酊と気分の昂揚の過程を実に巧みに視覚化していました。全体には簡素でありながら、意外に凝った仕掛けを配する舞台です。
イアーゴのアダム・クルシェフスキは、背も低く、声の迫力もさほどではないのですが、弱声を巧みに織り交ぜる歌唱技術で、卑劣な悪党のイメージをうまく出していました。プログラムによれば、クーラとトレリンスキは、必ずしも英雄的なオテッロを造型する意図はなかった、とのこと。しかし、結果的には、あまりにも卑小なヤーゴとの対比においてオテッロの容姿と声の立派さが際立ち、英雄悲劇になっていました。バリトンが技巧派であり力で押すタイプでないだけに、クーラはいつものようには弱声を多用せず、持ち前のバリトンに近いロブストな声を十分に張って骨太な表現をしていたように思えます。あの、デル・モナコとゴッビの「力の対決」とは全く別の世界が現出していました。
デズデーモナはタマール・イヴェーリ。おそらくまだ20代のソプラノです。目が大きく可愛らしい顔立ちでイノセントな役の性格にあった感じ。少しスピント系の暗みがかった強い声はなかなか魅力的ですが、第4幕の<柳の歌>と<アヴェ・マリア>はいやに長く感じられました。やや歌い方が単調でめりはりに乏しいのかも知れません。
ヤツェク・カスプシクの指揮は、手堅いものでしたが、弦の響きはやや粗雑で、オケ、合唱とも迫力不足はいかんともし難いものがありました。
2.メトロポリタン歌劇場公演《オテッロ》(2003年3月14日、ニューヨーク)
1995年から99年のニューヨーク駐在時代に、METやタングルウッドでの指揮ぶりにすっかりゲルギエフのファンとなってしまった私ども夫婦は、この公演を見たいがためにディスカウント航空券を手配し、勤務先の年休をとってMETに飛びました。
ワレリーの指揮は、期待にたがわぬ緊張感に満ちたすばらしいものでした。席が前から2列目の下手寄りだったので、音のバランスは必ずしもよくありませんが、彼の指揮ぶりを間近に見ることができました。例によって指揮棒を持たず、両手の指先を細かく動かす独特の振り、そして絶え間ない唸り声。ダニエル・オーレンの飛んだり跳ねたりとは少し違いますが、大変な熱演です。
とにかく彼が振る時は、METのオケとコーラスの音がいつもと違ってくるように感じます。特に合唱に与える影響が顕著で、彼がヴェルディを振ると、まるでスカラ座にいるようなパワーが引き出されてしまうのです。幕開きの嵐の場面からヴェルディの演奏に必要な熱気のボルテージがあっという間に上がる様は、スカラ来日公演の時のクライバー指揮による演奏と甲乙つけがたいように思えます。これが「オテッロ」の幕開きなんだ、ヴェルディの音楽はなんて凄いんだ、と実感する至福の瞬間です。合唱とオケが非力だったワシントンオペラとポーランド歌劇場の来日公演でたまっていた欲求不満が一気に吹き飛びました。
そして、オテッロの第1声<Esultate!(喜べ)>です。ウラジミール・ガルージンは2001年の新国立《トロヴァトーレ》に登場したロシアのドラマティク・テノール。あの時はあまり調子がよくなかったのか、大迫力のロブストな声の片鱗を見せただけに終わりましたが、今回はパワー全開でこれぞオテッロという堂々たる登場でした。ホセ・クーラに比べても更に太い声で、中音域はなまじのバリトンよりも重く力強い。ドミンゴを聴きなれたMETの聴衆には違和感があるのか、あまり受けているような雰囲気ではありませんでしたが、私にとっては声を聴いているだけで快感です。
フルヴォイスで飛ばしすぎたのか、第2幕のイァーゴとのやりとりの途中で少し声に震えがきて高音がかすれそうになる場面がありひやりとさせられました。しかし、イァーゴが<夢の歌>を歌っている間に体勢を建て直し、その後は声に破綻がくることはなく、重戦車のような歌いっぷりで乗り切ってしまいました。ペース配分を考えて「賢く」歌うドミンゴやクーラの歌唱に比べて、その体当たり的でスリリングな歌い方には、爽快感を覚えます。本当にこのパワーが最後まで持つのか、とはらはらさせられるスリルも、重量級歌手の声を聴く醍醐味といっていいかも知れません。そして、最後の<オテッロの死>の場面では、決して馬力だけのテノールではないところも見せつけました。柔らかな発声を取り混ぜた密度の高い歌唱で、悲痛でありながらも荘重な幕切れを感動的に演じてくれました。オテロ歌手のタイプとしては、バリトンのような太い声と最後の場面の繊細な役造りという点で、ラモン・ヴィナイに似ていると思います。
バリトンのプティリンは、キーロフ歌劇場来日公演をはじめとして何度も聴いていますが、声の力も歌唱力もあるすぐれたバリトンで、この役に不足はありません。特に<悪のクレード>での声のパワーと伸びはセルゲイ・レイフェルクスにはないものです。しかもパワーだけでなくソット・ヴォーチェも巧みで<夢の歌>は聴かせてくれました。しかしファルスタッフのような肥満体型で、ほとんど棒立ち的な演技なので、悪魔的というよりはどちらかといえば小悪党的なイァーゴのイメージです。
シカゴ出身のソプラノ、カレン・エスペリアンは金髪が似合うなかなかの美人ですが、ややチアリーダー系のそれで、声、歌唱ともにまずまずというところでした。