2004年6月27日(日)の《ファルスタッフ》新国立劇場公演を聴きました。
まず印象に残ったのは、ダン・エッティンガーというイスラエル出身の若い指揮者による音楽作りでした。
晩年のヴェルディが達した「軽妙な悟り」ともいうべき境地を、あくまでも堅苦しくならずに、溌剌として雄弁な演奏で鮮やかに表現できていたと思います。たとえて言うと、クリュグのシャンパンのように、ふつふつと泡立つ軽やかで透明に輝くイメージといきいきとした高い香りを持っていながら、一方である種頑固一徹なほどドライな切れ味と深いコクがある、《ファルスタッフ》はそんな味わいを持つオペラであることを、私に初めて実感させてくれたような気がします。
もともと、ヴェルディ・ファンである私自身の中で、この作品の「置き所」には、戸惑う気分がありました。《ファルスタッフ》は特別な作品です。ヴェルディ最後の作品であること、80歳近い作曲家が「自分のために書いた」と言っていること、若い頃に1作だけ作って失敗した「喜劇」に対する久方ぶりの挑戦であること、などなど。専門家の方々は「音楽的に最高の作品である」とおっしゃる。言ってみれば、巨匠最後の作品として、「愛される」というよりも「尊敬される」、「高尚で」「神聖な」作品というイメージがつきまとっています。モーツァルトやロッシーニの底抜けに明るいオペラ・ブッファとも肌合いが違います。喜劇であるのに、裃(かみしも)を着て拝聴しなければならないような雰囲気があります。カンタービレに酔い、美声にうつつをぬかす、熱狂的なイタリア・オペラ好きにとっては、やや勝手が違う作品です。
しかし、ヴェルディの他の傑作群をこってり重い銘醸品の赤ワイン、《ファルスタッフ》は上等なシャンパンかスプマンテであると考えると、オペラに関する私の好みのリストの中で、うまく収まりがつくということに、今回の公演で気がついたというわけです。
表題役のベルント・ヴァイクルは、ドイツ・オーストリア系のバリトンの中でも私が好きな歌手です。ウィーンで《アイーダ》のアモナズロ、ニューヨークで《ドン・カルロ》のロドリーゴなど、彼がヴェルディ・バリトンの典型的な役を歌うのも聴いたことがありますが、全く違和感なくその力強い美声を楽しむことができました。どちらかというと端正でスタイリッシュな歌い方、柔らかい発声が持ち味なので、ファルスタッフのようなアクの強いキャラクターはいかがなものかと思っていましたが、わざと胴間声を張り上げるような発声をしてみせるなど、巧みな歌いぶり、役者ぶりでした。彼自身もこの役を楽しんで歌っていることが伝わってくる演奏でした。
フォードを歌ったウラジーミル・チェルノフは、90年代の前半から中頃にかけて、メトロポリタン歌劇場のヴェルディ・バリトンの諸役を独占していました。あの大きな劇場で、重い役ばかりを歌わされて声を酷使した結果、私がニューヨークにいた90年代の後半には、声の荒れがひどくなっており、登場回数もどんどん減って、「彼はもう終わった」と噂されていたものです。その後、欧州に活動の拠点を移し、声の回復に努めたのでしょう。今回のように、中規模の劇場で軽めの役を歌っている限り、全く問題はなく、美声はよく響いていました。もともとは、ヴァイクルと似たタイプのカンタンテなバリトンであるだけに、アンサンブルになるとふたりの声の見分け(聴き分け)がつきにくい場面もありましたが。
フェントンは、人気のジョン・健・ヌッツォ。リリコでも強さを持つ彼の声には少し軽めの役ですが、青年らしい若さと甘さをうまく出していたと思います。
アリーチェのスーザン・アンソニーは、初めて聴くソプラノ。なかなか良いリリコ・スピントの声を持っていると思いました。クイックリー夫人のアレクサンドリーナ・ミルチェーワも、この役にふさわしい迫力ある中低音を持っています。このため、女声4人のアンサンブルでは、ナンネッタの半田美和子とメグの増田弥生が少し弱い感じがします。もともと軽いソプラノのための役であるナンネッタの方はまだよいのですが、メッゾの増田が特にアリーチェとの対比においてちょっとしんどい感じがしました。
カイウスのハインツ・ツェドニクは、いわゆるキャラクター・テノールのベテラン。さすがに芸達者です。これに負けない名脇役ぶりを発揮していたのが、テノールの中鉢聡(バルドルフォ)とバスの妻屋秀和(ピストーラ)です。男声陣の日本人コンビは声の面でも演技力でも外国人歌手と遜色ない存在感がありました。
ジョナサン・ミラー演出、イザベラ・バイウォーター美術・衣裳による舞台は、ルネサンス期のオランダ絵画からとったという簡素ながら美しいもので、特に面白かったのはその場面転換の手法です。日本で発明された回り舞台の手法は、ポンネルをはじめとしてオペラの演出家もよく使っていますが、回転軸がふたつあるものは珍しい。しかも、回るのは壁だけで床は動きません。椅子やテーブルなど簡単な家具は壁にとりつけてあるらしい。第1幕前半のガーター亭の場面では、舞台の両そでから奥に向って45度の角度でまず大きな壁があり、立方体を対角線上で斜めに切り取ったような空間になっていますが、その壁の中央から丁度半分の辺の長さの立方体が飛び出して小部屋を形作っています。
その真中の小部屋はガーター亭の賄い部屋といった設定で中は客席からは見えず、ドアがついていて亭主が出たり入ったりします。その賄い部屋の下手側は左手の壁に暖炉、右手の壁にファルスタッフが陣取る定席がある店の奥の空間、上手側は店の表に近い部分で一番右手の壁に店の入り口がついているという格好です。これらの壁が、下手側と上手側、それぞれに左右の大きな壁の中央を軸として別々に回転すると、第1幕後半のフォード邸の場面になるのです。中央の客席に向って飛び出している賄部屋の壁がそれぞれ左右に割れて90度回転すると、その奥からフォード邸の外側が現れるというしかけです。
今回の公演では第1幕と第2幕の間に幕間がないので、ガーター亭とフォード邸の場面が2回ずつ交互に現れるのですが、ガーター亭の場面は同じであるのに対してフォード邸の方は第1幕後半は屋敷の外側、第2幕後半は屋敷の内部という設定で、都合3つの場面が必要なわけですが、これを実にスムーズに転換するのでした。ジョナサン・ミラーという人は、決してひどく奇抜な演出をするわけではないのですが、いつもちょっとひねった印象的な舞台を作ってくれます。
ファルスタッフという人物は、ハゲで太っちょの老体でありながら意気軒昂、色気と自惚れを失っていません。この芝居の中で気の毒なくらいに散々な目にあるのですが、それにもめげず、最後の大団円で有名なフーガを堂々とうたい出します。「この世は全て冗談さ」。この抜けぬけとした逞しさ。老巨匠ヴェルディが楽しげに送ってくる最後のメッセージです。高齢化社会にふさわしい、なんとも元気の出るオペラではありませんか。