2.8月9日《リゴレット》
この日は、ヴェローナから北へブレンナー峠方面に向かう高速A22に車を走らせて、イタリアン・チロルの中心地ボルツァーノに向いました。ボルツァーノ近郊の山中腹にあるソプラ・ボルツァーノに滞在している岡本編集長をピックアップしに行ったのです。
一帯はまさにチロル風の切妻屋根の下、窓に花を飾ったコッテージが牧草地の斜面に点在し、向かい側のかなたにはドロミテ山塊の絶景を展望する美しい場所です。
岡本さんが投宿していたホテルで軽くランチを済ませたあと、少し奥にあるロープウェイでさらに高みなる展望台に行ってみました。冬はスキー場になる場所で、緑の斜面にはエーデルワイスやクローバーなど白い花がたくさん咲いています。残念ながら曇りがちで、ドロミテの山容はかすかに見えるものの、くっきりとした写真を撮ることはできませんでした。
ヴェローナに戻り、例によってミシュラン2つ星のレストラン「イル・デスコ」で夕食。3人で予約したのですが、帰り道のつづら折り道路で車酔い状態になったのか、妻は体調を崩して夕食はパス。男二人での食事となりました。
私は、ギニー鶏とポルチーニ茸のソテーにトリュフソースの前菜、イカスミのパスタ、メインは鴨のコンフィ。ワインはソムリエに相談してテヌータ・サン・アントニオのアマローネ「Campo dei Gigli 2005」をとります。今まで聞いたことのなかった銘柄ですが、地元では定評があるのでしょう。香り高くしっかりと濃いのですが独特の苦みはあまり強くなく、バランスのとれたモダンな味わいで料理とよく合いました。
オペラは《リゴレット》です。
指揮:リッカルド・フリッツァ
演出:イヴォ・グエッラ
装置:ラッファエレ・デル・サヴィオ
衣裳:カルラ・ガッレリ
合唱指揮:アルマンド・タッソ
リゴレット:レオ・ヌッチ
マントヴァ公爵:サイミル・ピルグ
ジルダ:アレクサンドラ・クルザク
スパラフチレ:アンドレア・マストローニ
マッダレーナ:アンナ・マラヴァージ
ジョヴァンナ:ミレーナ・ヨジポヴィチ
モンテローネ伯爵:アブラモ・ロザレン
マルッロ:マルコ・カマストラ
ボルサ:サヴェリオ・フローレ
チェプラーノ伯爵:ダリオ・グロルジェレ
チェプラーノ伯爵夫人:フランチェスカ・ミカレッリ
《リゴレット》はこの日がシーズン初日。注目は、なんといってもレオ・ヌッチ。91年から2004年にかけてヴェローナでは3回の《リゴレット》を聴いていますが、私どもはめぐり合わせに恵まれているのでしょう、その題名役は全てヌッチでした。
最高の当たり役、とはいっても彼も今年で71歳。7月26日に1回だけ登場が予定されていた(おそらく肩慣らしのつもりだったのでしょう)ジョルジョ・ジェルモン役は体調不良でキャンセルになっていたので、まずは出てきてくれるのか、ということが心配でした。冒頭の場内アナウンスで彼の名前を聴いたときには、ほっと胸をなでおろしたものです。
初めのうちは、声の輝きの衰えをディクションでカバーしようとするかのようなゴツゴツしすぎる歌い回しが気になりましたが、徐々にエンジンがかかり、第2幕終わりのジルダとの二重唱にいたっては例によってアンコール。その2回目の歌唱などは鳥肌もので、昼間の運転の疲れとイル・デスコでの重めの夕食が重なってやや朦朧としていた頭がすっかり冴えわたりました。
マントヴァ公爵を歌ったアルバニア生まれのテノール、ピルグは、32歳の若さで既に世界中の大劇場で起用されているそうで、確かに、高音域に冴えた緊張感をもつ端正で伸びのある美声、スタイリッシュな様式感、甘いマスクなど、スター性十分なリリコ。
ポーランド出身のクルザクも、透明感のある美声と清純派の容姿がこの役にぴったり。特に、第1幕第2場の<Caro nome…(慕わしい人の名は)>は、アジリタの切れはふつうでしたが、指揮者のフリッツァの貢献もあるのでしょうがフレージングがとてもよく、この名曲が持つカンタービレの美しさと、情感をよく表していたと思います。アンサンブルになると、他のソリストよりやや声量不足気味ながら、高い音なのでめり込むことはなく、それほど不足感はありませんでした。
バスのマストローニとメッゾのマラヴァージという準主役級がふたりともしっかりした声でよく響いていたので、第3幕のアンサンブルでスリリングな興奮を味わうことができました。
イタリア人若手指揮者の代表格、フリッツァをこのアレーナで聴くのは初めて。期待にたがわぬ引き締まったよい演奏でした。バッティストーニのような派手なアクションはありませんが、出てくる音楽はメリハリの利いた鮮やかなもので、ヴェルディの演奏に必要な熱気や歌心にも事欠きません。
3幕仕立ての《リゴレット》は比較的短いオペラで、本来なら9時開演でも12時頃には終わるはずだったのですが、この日はハプニングが起きました。
グエッラ演出、デル・サヴィオ装置のプロダクションは、2004年にも観ているので、その時の私の感想文を以下に引用します:
『昨年新演出として登場した今回の舞台は、背景として、後方のすり鉢状の石段いっぱいに、マントヴァのドゥカーレ宮殿の城壁をリアルに模した巨大なセットが張り巡らされています。
マントヴァは、ヴェローナから車で南に30分くらいで行ける隣町ですから、地元の人にとっては、このセットを見ただけでその雰囲気が実感できるしかけです。98年に観たリゴレットでも、今回ほど巨大ではありませんが、同じようなリアルなマントヴァ風景が遠景として使われていました。いわばこの作品は、「ご当地オペラ」なんですね。本来、ユーゴーの原作はフランス宮廷が舞台で、マントヴァは検閲逃れのために便宜的に設定された場所ですから、こんなリアルなセットをせっせと作らなくてもいいようなものですが、ご当地でみると、なかなか雰囲気のあるものです。
今回のプロダクションは、こうした舞台装置にかなり凝っていて、リゴレット親子がスパラフチレの家に向かうのに、小船に乗って湖面を行く風景もあり、これも三方を湖水に囲まれたマントヴァの地形を生かした演出です。回り舞台などを機能的に使う工夫もなく、いちいちセットを解体してまた組み立てる方式のため、舞台転換のための大道具方の作業は大変そうでした。吊り具も奈落も舞台袖もない舞台で、普通の劇場並みの大道具をこしらえるのはちょっとどうかな、と疑問が残ります。
これに対して、ゼッフィレッリなどの一流の演出・装置家は、同じように凝った装置ではあっても、場所と空間を考えて、転換がスムーズにいくようなプロダクションをうまく考えています。』
今年の装置は100周年でさらに力を入れたのか、04年当時よりもさらに凝ったものになっていたような気がします。
すり鉢状の石段の上部に組まれているドゥカーレ宮殿の立派なセットは以前と同じと思われますが、その下にギベリン型のバトルメント(上部が二股になったギザギザ)を備えた城壁が糸杉の森の中に張り巡らせている書割が置かれています。これは、ヴェローナの街の東北にある丘の風景を彷彿とさせるものです。この書割が問題でした。
第2幕と第3幕の間の舞台転換の作業中に、それほど強くない風にあおられて、一部が倒れてしまったのです。もともとシーズン初日ということもあり舞台上のセットの転換にも手間取っていて、20分の予定の幕間が30分を超えた矢先の出来事でした。
結局、そのままでは危険だということで、中段にある森と城壁の書割は全部倒してしまうという作業が発生。結局幕間は1時間に及んでしまったのです。
その間、観客もオーケストラも席に座ったまま待機。面白かったのは、奮闘する大道具方の人々を激励する気持ちなのでしょう、下手のスタンド席からウェーブが始まり、上手のスタンド席まで場内を一巡。驚いたのは、上手までウェーブが来たところで、オーケストラピットの団員たちもが、上手から下手に順に手をあげてウェーブをしたことです。
2回目のウェーブが起きたときには、オケだけでなく平土間の人々もウェーブに参加しました。
スタジアム形式の会場ならではの出来事だったと思います。