東京・春・音楽祭特別公演で来日したムーティの講演会という異例の催しがBunkamuraのオーチャードホールでありました。
ヴェルディ協会から案内はあったものの予約を忘れており、台風一過の土曜の午後、当日券(1500円)での入場。ムーティ氏の強い意向で25歳以下の若者は無料とのことでしたが、1階の平土間は有料と思われる人々でほぼ埋まっておりました。
前半は、通訳兼司会の田口道子さんとの対談、後半は若い演奏家(ソプラノ、バリトン、ピアノ伴奏)に対する公開レッスンのような形で行われました。17:00に始まり、18:30頃に終わる予定だったはずですが、実際には18:00頃に始まったレッスンが熱のこもったものとなり、終わったのは19:30頃となりました。
休憩なし、最後は通訳がほとんどついていけない状態で、オペラに馴染みがない人にもついていけない内容だったかもしれません。しかしながら、オペラ好きにはとっては堪らない、実に面白い講演会となりました。
前半は、ムーティの自伝的な話と、ヴェルディ演奏に関する彼の考え方について。以下に、マエストロが一人称で語った内容を紹介します:
ナポリ近郊の医者の家に生まれ、8歳の頃からヴァイオリンをならっていたが小さな町でヴァイオリンをやっているのも自分ひとりという状態。ひとりでもメロディーと伴奏がつけられるピアノの方が面白くなり、ピアノを習いはじめ、人前でも演奏するようになった。
やがて、一家はナポリ市内に移り住み、13歳の時、父親の知り合いだった作曲家のニーノ・ロータがこの子は音楽の才能があると推奨してくれたため、ナポリ音楽院(サン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院)に入り本格的にピアノを勉強することになった。ただし、父の方針で、普通の勉強もしっかりやることが条件だった。
やがて音楽院長から「君はピアニストになりたいのか。指揮者になりたいのか。」と尋ねられた。「ピアニストです。」と答えたのだが、院長からは「君の演奏は、ピアニストというよりも、指揮者のそれだね。」と言われ、気がすすまないままに学生オーケストラを指揮させられた。
ところが、その時に自分の人生の転機となる魔法の瞬間がおとずれた。自分では働かずにタクトを振りおろすだけで音楽が紡ぎだされる快感の虜になったのだ。
ミラノの音楽院で本格的に指揮者としての勉強を始めたが、当時は指揮者になるためには作曲の勉強が必要で10年の修行があたりまえとされていた。最初の5年が和声学、対位法を3年、最後の2年はオーケストラの楽器全ての演奏法を学ぶのだ。
最近の若い指揮者はやたらに派手に振りたがるが、大事なのは音楽作りであり、過去の偉大な指揮者たちはみな最少の身振りでオーケストラに自分の意思を伝えることができた。演奏の前に曲をしっかり研究し、作曲家の意図をつかみとっておくことが大切なのだ。
26歳の時(1967年)にグイド・カンテルリ指揮者コンクールで優勝し、ふたつの仕事のオファーが来た。
そのうちのひとつがフィレンツェでスヴャストラフ・リヒテルのピアノ協奏曲の指揮をする、というものだった。当時すでに大巨匠であったリヒテルから滞在先のシエナに呼び出され、ミラノから列車に乗ってでかけた。
単に会いたいという話だったが、指定されたキジアーナ音楽院の美しい大広間に行くとグランド・ピアノが2台置いてある。その傍らにGigante(巨人)が立っていた。音楽界の巨人であると同時に、身体的にも見上げるような大男であった。
彼がソロの部分を弾くので、オーケストラ部分をピアノで弾け、という注文。緊張したが、あらかじめこうして試されるのだろうなと予期してピアノ譜を十分にさらっていたので、とにかく懸命になって弾いた。時折巨匠の顔色を横目でうかがいながら協奏曲全曲を休まずに演奏したところお眼鏡にかなったらしい。コンサートは無事大成功をおさめ、そのままフィレンツェ五月音楽祭の音楽監督に就任することができた。
フィレンツェでのオペラの初仕事はヴェルディの《イ・マスナディエーリ(群盗)》だった。劇場のライブラリーから総譜を借り出してみると、前任者の書き込みのほかに、ホッチキス止めがされて開けなくなっているページがあった。
ここから私の生涯にわたる戦いが始まったのだ。モーツァルトやワーグナーのオペラを一部カットする慣習があるだろうか。否である。イタリア・オペラだけが、このような伝統的と称する上演法の対象になっている。
これは我々イタリア人の責任だ。こうした悪しき「伝統」は断ち切らなければならない。私は断固、作曲家が書き残したとおりに演奏することが私たちの責任だと思っている。だから、歌手が勝手に楽譜にない音を付け加えたりすることも許さない。ヴェルディの場合は特にそうだ。本人が書いた手紙の中でも彼自身がそう言っているのだ。
ロッシーニにも有名なエピソードがある。パリで彼の作品が上演された時に、プリマドンナの楽屋を訪れてこう言ったそうだ:「マダム。たいへん立派な演奏でしたな。素晴らしい。ところで、今の歌は、誰の作曲ですかな?」イタリア・オペラの場合は特に、こうした作曲家の意図をずたずたにしてしまう演奏が平気で横行していた。我々イタリア人はこうした悪しき伝統を断ち切らなければならない。
とにかく、作曲家と聴衆の間を仲介する我々演奏家は、楽譜を「esattamente(正確に)」に音にしなければならない。もちろんここでいう正確さは、メトロノームのように機械的にテンポを刻むということではないし、数学のように答えがひとつになるわけではない。作曲家の意図を忠実に再現するということであり、演奏家によりその解釈(iterpretazione)は異なって然るべきものである。
しかしながら、歌手の声をひけらかすためだけの装飾や、およそ作曲者の意図が観客に伝わらないような演出はするべきではないのである。私のこうした原典主義を貫くためには、歌手、劇場マネジメント、評論家、聴衆の抵抗と常に戦ってこなければならなかった。
以上が、前半部の骨子です。ここまででも十分に興味深い内容でしたが、なんといっても後半の実演が圧巻でした。歌手は、翌週の春祭オーケストラによる特別演奏会(すみだトリフォニーホール)でソロを歌うソプラノの安藤赴美子とバス・バリトンの加藤宏隆。
まずは、《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》第2幕の父ジェルモンの登場からヴィオレッタと別れるまでの二重唱全部がふたりの歌手によって演奏されました。
この間、ムーティはピアニストの背後に立ったまま、時おり片手で軽くテンポの指示を出すだけで、一度も止めずにじっと聴いています。若い歌手ふたりはムーティの思いつきで今朝突然依頼を受け、午前中に軽く稽古しただけとのことでしたが、すでにプロとして演奏活動をしている歌手たちなので、かなり立派な演奏でした(後で31日の演奏会《運命の力》を聴きましたが、《椿姫》の方がふたりの声に合っており、出来がよかったかもしれない)。ひととおり演奏が終わり盛大な拍手。ムーティも最大の賛辞を惜しみませんでした。
そして、それではこれから指揮者がどんな仕事をするのかお見せしたい、ただし時間も限られるのでとりあえず2点だけにしたい、ということで指導が始まりました。
まずは、二重唱の冒頭。パリ郊外にヴィオレッタが借りた別荘に、アルフレードがいない時に父親のジェルモンが訪ねてくる場面です。
ムーティは解説します:このオペラには、作曲当時ヴェルディと同棲状態だったジュゼッピーナ・ストレッポーニ(後に正式に結婚)に向けられた故郷ブッセートの人々をはじめとする世間の冷たい扱いに対するヴェルディの抗議の意思が込められているのです。
そして、父親ジェルモンはその頑迷固陋な世間を象徴する人物です。ジェルモンが登場する時の重々しいオーケストラの旋律はそれをよく表しています。音楽が人物の動きを雄弁に語っているのです。それなのに、この旋律が終わってしまってからジェルモンがのこのこと小走りで舞台に出てくる演出があった。お笑い種ですよね。ヴェルディの場合、ドラマの進行は全て音楽で表現されているのだから、それを具現して聴衆に伝えなければならない。演出家が勝手なことをするべきではないのです。
たとえば、と言って、マエストロはピアノでオペラ冒頭の前奏曲のメロディーを弾きはじめました。
ヴィオレッタは、結核にかかっておりもう長くは生きることができない、ということを自覚している。その静かな諦めにも似た「死の予感」がこの旋律にはこめられており、最初は光が見えずまったくの闇である。ヴィオレッタは、自分には真剣な恋はできない、する資格がない、と考えているのだ。だからといって、そんな内省的な彼女が、自堕落で男に媚びるだけの人物であるはずがない。網タイツでテーブルの上に立たせ、札束を持った男たちが下から好色な目で見上げる演出があったが、これも言語道断だ。
やがて少し光がさし、かすかな希望を物語る。ムーティが語りながらさりげなく弾くお馴染みの前奏曲のメロディーが、不思議なことに本当に美しく切ないまでに胸にせまります。隣の妻も同じことを感じ取ったらしく、ハンカチを取り出して目頭を押さえています。
しかし、彼女はアルフレードと出会い、生きる希望を見出す。そうして一緒に暮らし始めたふたりの所に「世間の代表」ジェルモンが訪れ、別れを迫る。理不尽な世間に対するヴェルディの抗議の気持ちを表す、このオペラの中心となる場面がこの二重唱なのです。
やってきたジェルモンの第一声「Madamigella Valery?(ヴァレリー嬢ですな?)」。この言葉には疑問符がついているものの、彼には目の前の女が誰だかはわかっているのだから、そのような言い方でなければならない。
それに対して、「Son io.(はい、私です)」と答えるヴィオレッタの方は、まだ相手が誰なのか知らないので、問いかけの気分がにじまなければならない。それを受けてジェルモンが「アルフレードの父親としてお目にかかりたい。」ヴィオレッタは、はっとして「Voi?(あなたが)」と、相手が誰かを知った驚きが現れなければならない。
ただし、実はこの親父も遊んでいる男でヴィオレッタは前から見知っていた、という解釈もある。その場合は。「あらまあ、あなた様はアレフードの父上でしたの」という具合にまったく気分が変わる。
(ソプラノに対して)君はどちらの気分でやるのかね?ちゃんとその心具合を決めて聴くものに伝わるように演奏しなくてはいかんよ。
たとえば、この二重唱の後半でも、ヴィオレッタが「Dite alla giovine si bella e pura...(その美しく清純なお嬢さんに伝えてください....)」と歌うところがあるね。この「si bella e pura」なども、ヴィオレッタは皮肉で言っているのか、素直に相手の言うことを信じたのか、両方の解釈がある。どちらでもいいが、君がどちらだと思って歌っているのかは、表現できなければならないのです。
次にジェルモンが続ける:「S““, dellÕin cauto, che a ruina corre, ammaliato da voi.(そのとおり。あんたにたぶらかされて、危機に陥り、破滅に向かっている男の(父親)ですよ)」。「ammalianto」というのは、魔法にかけられ、魂を奪われた状態。相手を魔女であるかのようにみなす大変強い侮辱的な言葉なのです。だから、ヴィオレッタは強くそれをさえぎり「Donna son io, signore, ed in mia casa;(私は婦人ですよ、シニョーレ、そしてここは私の家です。)」と相手の無礼をとがめるのです。したがって、この「signore」には皮肉がこめられなければいけませんよ。
次は、二重唱が三分の一ほど進んだところ。ジェルモンが娘の縁談の障りになるのでアルフレードと別れてほしいと頼み、ヴィオレッタが「そんなことをしたら私は死んでしまいます」といったん拒絶、いよいよジェルモンが本格的な説得にとりかかるところです。
ジェルモンが歌い出す:
「éé grave il sagrifizio.(あなたにとっては大きな犠牲です。)」
「ma pur, tranquillo uditemi.(でも、心を落ち着けて聴いてください。)」
このふたつのフレーズはほとんど同じ音型ですが、「uditemi」のほうだけ「di」は4分音符になっており、ここは、きちんと音を伸ばして歌う必要がある。これはファの音ですが、直前まで同じ音型だったオーケストラの伴奏の方はすでにミに降りているので、音がぶつかります。(といってピアノを鳴らしてみせる)。これから言いづらいことを言おうとしているジェルモンの心理をこういう形でヴェルディは表現しているのですから、この音符は強調して歌わなければならないのです。
そして次の歌い出しに、そんなに慌てて入ってはいけないですね。楽譜になんて書いてありますか?「pausa lunga(長い休止)」となっていますね。いよいよ相手のいやがることを言わなければならない。ジェルモンの躊躇う気持ち、覚悟を決めるための間を表しているのです。この休止は短すぎてはいけないが、長すぎてもいけない。レナート・ブルゾンとはここだけで20分間も稽古したこともあったな。
次にジェルモンは始める:「Bella voi siete e giovine col tempo (あなたは美しくそして若い、今はね)」
ヴィオレッタはその後を聴きたくない。何を言われるかはわかっているから、それを遮るように「Ah più non dite...(ああ、もうおっしゃらないで...)」と強い調子で歌い出すのです。
・・・以上が、予定を1時間オーバーする熱心な指導の概要でした。実際にはもっといろいろなことをしゃべったような気がします。
スカラ座時代には、ムーティが公演前に歌手を徹底的にしごくので、その練習場所のことが「黄色い部屋(Sala gialla)」と呼ばれて恐れられたそうです。おそらく、このように一度始めたらなかなか止まらない厳しい指導だったのでしょう。まさに指揮者の仕事の一端を垣間見させてくれる実にエキサイティングな講演会でした。若い歌手ふたりにとっては、大観衆の前でしごかれるのですから緊張したでしょうが、実に貴重な体験であったことでしょう。