11月10日にNHKホールで行われたNHK交響楽団定期演奏会《シモン・ボッカネグラ》を聴きました。
アッリーゴ・ボーイトの協力を得たこの改訂版は数あるヴェルディ作品の中でも完成度の高い傑作であるにも拘わらず、生演奏に接する機会が少ない作品。ヴェルディフリークの私でも、40年間でこのオペラを劇場で聴いた経験は、日本国内で4回、海外で2回しかありません。2001年のフェニーチェ来日公演が最後ですから、演奏会形式とはいえ、生演奏に接するのは本当に久しぶり。貴重な機会でした。
その数少ない体験のなかでは、当時歌い盛りだったカップッチッリ(シモン)とギャウロフ(フィエスコ)が出演した1976年のNHKイタリアオペラ公演と1981年のスカラ来日公演がなんといっても語り草。その名演には及ばないにしても、場所も同じNHKホールということもあり、今回はその時の興奮がまざまざと蘇り、あらためて追体験できるだけの非常に高いレベルの演奏だったと思います。
さすがにN響の現役には、76年イタリアオペラ公演(NHKホール杮落し公演でもありました)のピットの中で《シモン》を演奏したメンバーは残っていないでしょうが、会場を埋め尽くす聴衆には年配の男性の姿が多く、私と同じ感慨にふけっていた人も多かったのではないでしょうか。
ソリスト陣は私が名前を知らない若手が中心だったのですが、それでもこれだけの演奏を聴かせてくれたのは、やはりベテラン指揮者ネッロ・サンティの力によるところが大きかったと思います。巨躯を運ぶのが見るからにしんどそうな覚束ない足取りで指揮台まで向かうのですが、いったん指揮台に立つと見違えるような指揮ぶり。譜面台は置かず、完全な暗譜で、ソリストたちにも鮮やかな手つきで細かいキューを出しています。
1931年生まれのサンティは、あの伝説的ともいえる81年スカラ来日公演を振ったC・クライバー(30年生)やアバド(33年生)とほぼ同世代。
プログラムで、昨年新国立劇場《オテッロ》に出演したフラッカーロが「念願叶ってネルロ・サンティ指揮《オテッロ》に出演出来た時は、50年ものキャリアを誇るマエストロから、デル・モナコのブレスの取り方をはじめとして、それまで彼が共演した名だたるオテロ歌いたちのテクニックやポイントを教えてもらいました。金庫に入れて家宝にするくらい大切な財産です。」と語っていることを、小畑恒夫さんが紹介されています。
今回も、若い歌手たちは、カップチッリ、ギャウロフ、フレーニらがこの曲をどう歌ったのかを、マエストロから丁寧に指導されたのに違いありません。オペラがイタリアの伝統芸能であることをしみじみ感じさせる演奏だったといえましょう。
ヴェルディ演奏の伝統が息づいていたのは、個々の歌手たちの歌い方だけではありません。特に素晴らしかったのは、第1幕第2場総督宮会議場の場および最終幕のコンチェルタート。ソリスト、合唱、オーケストラが絡み合いながら織りなすドラマの最高潮の部分にしてヴェルディオペラの醍醐味といえる場面。ここでの白熱の盛り上がりとカンタービレの美しさはまさに涙ものでした。
ソリストたちの中で特に印象的だったのは、ガブリエレ・アドルノを歌った36歳の韓国人テノール、サンドロ・パークでした。2010年にもN響定期で《アイーダ》に出演したとのこと。非常に力強いよく響く美声を持ったリリコ・スピントです。様式感も確かで、イタリアで活躍しているだけのことはある歌い回しのうまさがあり、強い声ながら柔らかな発声での甘い表現も巧みです。丸顔、鼻ぺちゃの典型的なアジア顔という容姿に難があるものの、これなら一流歌劇場でも十分に通用することでしょう。
それにしても、一見日本人とあまり変わらない体格と思われる韓国人から、フランチェスコ・ホン、ヨンフン・リー、ウーキュン・キムなど力強いスピント系の声を持ったテノールがなぜこれほど続々と輩出するのが不思議な気がします。実は日本人にも隠れた逸材はかなりいるにも関わらず、日本の声楽教育、あるいは聴衆一般の好みがリリカルな声を重視することに問題があるのかもしれない、とふと思いました。
題名役のパオロ・ルメッツもヴェルディ・バリトンとして十分な声と様式感を持っていました。同じトリエステ出身の大先輩で、この役の極め付けといえるカップッチッリよりは一回り小粒ではあるものの、よく似た声と歌い回し。
フィエスコを歌ったポーランドのバス、グレゴル・ルジツキも、高音に多少難があるものの深々とした立派な低音、中音域をもっていて、なかなか健闘していました。なかでも、最終幕でのシモンとの二重唱は、しみじみとした情感があり、まさに男たちのオペラといえるこの作品の白眉を不足なく表現してくれていたと思います。
アメーリアを歌ったスイス出身のソプラノ、アドリアーナ・マルフィージも、リリカルな美声でそれほど強くはないのですが、直進性のある声で、オケがステージ上から大音量を響かせる演奏会形式、しかも場所がNHKホールという悪条件の中でもきちんと存在感を出し、サンティの棒にこたえる様式感の確かな歌唱をみせてくれました。
パオロを歌った吉原輝もなかなか立派な歌唱でした。弓兵隊長を松村英行が歌ったのは贅沢な配役。パークがよかったので納得ではあるのですが、アドルノ役もできる声です。
合唱は二期会合唱団。
今回この公演を聴いてつくづく思ったのは、ヘンな演出がつくよりは老練な指揮者による演奏会形式の方がよほどオペラを楽しめる、ということです。特にN響定期は定額制なのでソリストや合唱がついてもA席7,000円。プログラムも無料ですかaら、大変コストパフォーマンスがいい演奏会だったと思います。
面白かったのは、休憩時間。オペラの時とは反対に女性用より男性用トイレのほうに長蛇の列ができていました。定期会員には圧倒的に男性が多いようです。