つい最近、オペラ仲間の先輩からのメールで、イタリアの名バリトン、ピエロ・カップッチッリが亡くなった、との知らせを受けました。日本では報道されなかったため、レコード店からの情報で知ったそうで、「何か聞いていますか」との問い合わせでした。
早速、インターネットで検索をかけてみたところ、フランスのル・モンド、イギリスのガーディアン、アメリアのニューヨーク・タイムズ、そしてもちろん地元イタリアのイル・テンポなど、欧米の主要新聞のウェブサイトには、彼の死亡に関する記事が出ていました。
これらによると、本年7月12日、生まれ故郷のトリエステで亡くなった(享年75歳)、という事実だけがわかりました。あとは彼の輝かしい経歴が述べられているだけで、死因などは一切不明です。1992年に交通事故で大怪我をして第一線を退いて以来、健康にすぐれなかったらしい、という言及があるくらいです。
事実上引退してから13年になる歌手が故郷でひっそりと亡くなった、というニュースを、欧米の一流紙がこぞって10行から30行以上にわたる追悼記事にしたのは、やはり大歌手ならではのことではありましょう。特に米国の場合は、METで《椿姫》のジェルモンを一回歌っただけであるにもかかわらず、ニューヨーク・タイムズが、ちょっと遅ればせ(7月21日付)ながらも、追悼記事を出している点、さすがです。
それにひきかえ、わが国では、主要なメディアが沈黙していた(私たちが見逃しただけかもしれませんが)としたら、非常に残念なことです。日本では、カップッチッリは、彼の極めつけというべき《シモン・ボッカネグラ》を全盛期に2回も演奏しているうえに、《ドン・カルロ》や《ガラ・コンサート》、リサイタルなどにも出演しているのですから。どうも、ソプラノ、テノール偏重、ドイツ音楽偏重というわが国の一般的風潮がこういうところにも現れるのかも知れません。
私にとっては、エットレ・バスティアニーニに次いで大事なバリトンであり、生の声を聴いたことがある人の中では最高の歌手のひとりです。追悼の意味をこめて、まず、今回欧米の各メディアに掲載された記事に紹介されていた彼の業績を以下に要約します。メディアによって、年代や出演作品名に食い違いがある部分は多数説にしたがい、カッコの中で別の説も紹介しました。
--------------(各紙の記事の要約)-------------------------
ピエロ・カップッチッリは、1929年(1926年、27年との記述もあり)11月9日に、イタリアのトリエステで生まれた。10歳の時、ヴァカンス先のナポリで《カルメン》の児童合唱の一員として舞台にあがったことがあるが、夢は建築家になることだった。しかし、美声に注目した周囲から薦められ地元で声楽の勉強をはじめる。
やがて、トリノのジュゼッペ・ヴェルディ劇場のルチアーノ・ドナッジョ門下で研鑚を積み、いくつかの小さい役を歌ったあと、1957年、ミラノのテアトロ・ヌオーヴォで《道化師たち》のトニオを歌って、プロのオペラ歌手として正式デビュー。有望な若手歌手を探していたEMIのレコードディレクター、ワルター・レッゲがその美声に注目、1959年にジュリーニ指揮の歴史的な全局盤《ドン・ジョヴァンニ》のマゼット役に起用。引き続き1960年、マリア・カラスの《ランメルモールのルチア》2度目の録音で、エンリーコ・アシュトン卿に抜擢された。同年ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に《椿姫》のジョルジョ・ジェルモンでデビュー(MET出演は1969年という記述もあり。いずれにせよ米国におけるフル・オペラ出演は1回だけで、あとはリサイタルや演奏会形式オペラに出演しただけとか)。
1963年(1964年という記述もあり。おそらく1963年-64年のシーズンを意味するのでしょう。)に、エンリーコ(《トロヴァトーレ》のルーナ伯爵という説もあり)でスカラ座デビュー。引き続き同劇場で、《アイーダ》、《ドン・カルロ》、《運命の力》に登場し、エットレ・バスティアニーニの後を継ぐイタリア・オペラの主役バリトンとしての地位を確立する。
コベントガーデンには1967年にヴィスコンティ演出《椿姫》のジェルモンでデビュー。1975年ザルツブルグ音楽祭のカラヤン指揮《ドン・カルロ》でロドリーゴを歌う。その4年後、ウィーン国立歌劇場でのカラヤン指揮《トロヴァトーレ》におけるルーナ伯爵の名演はDVDになっている。
彼の輝かしいキャリアの中でも金字塔というべきなのは、1971年からスカラ座で上演され、その後世界中(ロンドン、パリ、東京など)の公演でも絶賛を博した、ジョルジョ・ストレーレル演出、クラウディオ・アッバード指揮の《シモン・ボッカネグラ》のタイトル・ロール。
最近のインタビューの中で、カップッチッリ自身がこう語っている:『ストレーレル、アッバードと一緒に仕事をしているとき、私はこの役がもつ複雑な性格をあますところなく描くことができた…ノこのプロダクションの眼目は、全体としてのドラマを犠牲にすることなく、シモーネの性格に焦点をあてることだったんだ。』同じ演出家・指揮者とコンビと制作した《マクベス》も極めつけの名演として語り継がれている。
そのほか、彼の当り役としては、《リゴレット》の題名役、《オテッロ》のイアーゴ、《トスカ》のスカルピア(1989年のスカラ最後の舞台もスカルピアだった)、《アンドレア・シェニエ》のジェラール、《ジョコンダ》のバルナバなどがある。