小澤征爾が音楽監督としてプロデュースする「東京のオペラの森」による《オテッロ》の2006年4月2日公演(東京文化会館)を聴きました。結論を先に言いますと、演奏は極めてレベルが高く満足すべき内容、ただし、演出に問題があった、といえると思います。演出については、単に好みの問題ということではなく、せっかくの稀に見る高いレベルの演奏の足を引っ張っていたところがありました。これについては後で述べましょう。
歌手については、主役の3人の声が役にはまっており、演奏も素晴らしいものでした。
なかでもイアーゴを歌ったグルジア出身のバリトン、ラード・アタネッリは期待どおり。もともと、現在ジャカルタに駐在している私が、週末を利用してトンボ帰りでオペラを聴きに帰国したのも、アタネッリがこの役を歌うということに強い興味を惹かれたからです。私がアタネッリの声を「発見」したのは、1997年末、ミラノでの《マクベス》。その硬質で強靭な声の響きに驚きました。昨年亡くなったカップッチッリの後継者といってよいタイプの声です。
今回のイアーゴで、その真価はいかんなく発揮された、と思います。レコードで聴くゴッビやカップッチッリほどの凄みやあざといほどの邪悪さは感じられないものの、その圧倒的な声の威力で、このドラマの真の中心人物であるという存在感をみせていました(問題があると申し上げた演出も、イアーゴにスポットライトを当てるという点では共感できる部分がありました)。<悪のクレード>におけるアタネッリが、フルオーケストラに負けない強大な声を十分に咆哮させたあと、十分に間をとりながら<死は虚無だ>の低音に入ったあとの沈黙は鳥肌が立つような瞬間でした。オテッロに夢の話をする場面のソットヴォーチェだけはあまりいただけませんでしたが、そのほかのシーンにおいても、オテッロの胸に疑惑を植え付けていく過程がくっきりとした邪悪さで描かれていたと思います。
タイトルロールはクリフトン・フォービス。2003年のスカラ座来日公演でもこの役を歌いましたが、その時私が聴いたのはデヴィット・レンダルの方だったので、私にとってはフォービスを聴くのはこれが初めてです。レンダルとは違ってオテッロを歌うのに全く不足のない声の持ち主、ということがよくわかりました。第一声の<Esultate!(喜べ)>はやや声がくぐもってしまいましたが、その後の<Dopo lユarmi lo vinse lユuragano (戦いの後に嵐が敵を殲滅したのだ)>では十分に輝かしく張りのある声を響かせました。それから最終幕まで、声を張るところでの馬力は衰えず、十分にドランマーティコでした。表現がやや荒削りで一本調子のように感じられるところもありましたが、これは演出によるマイナス効果の影響もあり得るので、彼の演技・歌唱の実力がこの程度であるのかどうかはよくわかりません。
デズデーモナのクラッシミラ・ストヤノヴァは、名前も声もはじめて聞く人でしたが、これがなかなかのものでした。スピント系の役も歌えるであろうと思われる強さと輝きをもったリリコの美声で、容姿も美しく、同郷(ブルガリア)の先輩ソプラノ、アンナ・トモワシントウを思い出させます。しかし、彼女よりも声に透明感があって響きと強さも上ではないでしょうか。今回の「オペラの森」で《レクイエム》の方に出演するバルバラ・フリットリとも似たタイプです。フリットリほどの歌いまわしの巧さはないものの、声の強さはあるので、《レクイエム》と《オテッロ》のソプラノを入れ替えた方がよりふさわしいような感じです。ただし、《レクイエム》に少し軽めの声のソリストを起用する、という最近流行りの傾向に沿った今回の《レクイエム》のセットでは、フリットリの方がバランス上いいのかもしれません。また、ストヤノヴァがフリットリほど歌いまわしが巧くない、という判断も、今回の演出でだいぶ損をしているところもありますから、間違っているかもしれません。
では、この辺で、その演出の話をしましょう。
この公演では、オーケストラがまだ正式の音合わせに入る前、つまり各楽器が勝手に音出しをし、「アラーム時計と携帯電話の電源は切ってください」などと場内アナウンスをしている間に幕があがります。
前面には大きな網戸のような数枚の金網の仕切りが垂れ下がっており、開閉するようになっています。その金網の奥の舞台上では老人の顔をかたどった白いゴム製の仮面をつけ裾長の衣をまとった10数人の人物が俯き加減で歩きまわっています。字幕にはヴェネチア元老院議員たち、との表示。やがて指揮者が登場し、嵐の場面の前奏曲が始まると、デズデーモナやオテッロも登場して、どうやらヴェネチアの貴族社会の顰蹙と反感に抗してふたりが結ばれる様子を表すかのようなパントマイムが演じられます。オペラの台本ではカットされたシェークスピア原作の第一幕を前奏曲の間にフラッシュバックのように物語ろう、という意図なのでしょう。しかし、あえて原作第一幕のヴェネチアの場面は捨象し、オペラの冒頭をキプロス島の嵐のシーンにしたヴェルディとボーイトの意図には合わない試みのように思えます。
舞台中央には高さ1m横1辺10mくらいの方形の台座が置かれ回転できるようになっています。基本的な舞台装置は前述の開閉する網戸とこの台座だけで全4幕を通します。上から紗のカーテンが下りてきて台座がベッドや部屋のように見えるしくみ。
やがて現れる合唱団員たちは、キプロス島民であろうが廷臣であろうが変わらぬ服装で、男女とも国籍不明の柔道着のような衣裳に頬かむりのような布をかぶり、顔半分には醜いケロイドのような赤く爛れた傷があって、癲者か被爆者のように見えます。ひとびとの顔にこのケロイドがある意味がよくわからない。
さらに、やがてイアーゴのたくらみによって起こるカッシオとモンターノの争いは、剣ではなくパンチの応酬ではじまり、皮ジャンのような衣裳をつけたカッシオがチェーンを取り出してモンターノを殴りつけるとところはまるで街の不良のケンカ。そういえば、前面に金網があることもあって、ウエストサイド物語のように見えなくもない。しかしながら、時と場所を明確にどこか、たとえば50年代のマンハッタン、に置き換えている、というわけでもなさそうなのです。
第2幕では男性の登場人物たちは、スポーツクラブでシャワーを浴びた後のようなバスローブ姿で現れますが、これも意味不明。演出家のクリスティーネ・ミーリッツ、装置・衣裳のクルチャン・フローレンは、何を表現したかったのでしょうか。
とにかくひとりよがりでわけがわからない演出は、観る者を混乱におとしいれるだけでなく、歌手の演奏にもマイナスの影響を与えているように感じます。
ひとつだけ例をあげると、第4幕のデズデーモナによる<柳の歌>の場面。一般的な演出では、寝支度をするデズデーモナがエミーリアに髪の毛を整えてもらいながら歌うシーンですが、今回デズデーモナは<柳の歌>を歌いながらエミーリアとともに寝台に見立てた中央の台座を覆う布をはがしていきます。ベッドのターンダウンをしているということでしょうか。女主人に相応しい作業ではない、という不自然さに加えて、このような動きをしながらでは、バラード風の<柳の歌>が歌いづらいだけでなく、エミーリアがデズデーモナの身繕いの世話を焼くシーンがないため、このふたりの間の親密な主従関係が形作られません。これでは、歌の終わりに死の予感に脅えるデズデーモナがエミーリアをもう一度呼び戻して抱きしめ、<おお、エミーリア、さようなら…ノ..>と絶唱するところで、歌手としては万感の思いがこめられない、と思います。せっかくストヤノヴァのしっとりとしていながら芯もある美声を聴かせる場面であるのに、その持ち味を十分に引き出せない演出になってしまっていたわけです。
さらにその後につづく<アヴェ・マリア>も、普通は寝台にむかってひざまずくなど祈りのポーズで歌われるところを、舞台の前の方に出て立ったままで歌わせていました。名曲ですから、それでも十分に祈りの気分は伝わりますが、視覚的には座りの悪いことこのうえないし、歌う側も中途半端でやりにくい姿勢だったと思います。
こうした歌いにくい演出は随所に見られましたが、それだけではありません。危険と思われる箇所もありました。第3幕の幕切れで失神したオテッロをイアーゴが足蹴にするシーンでは、実際に1m以上の高さがある台座から下の床にオテッロは蹴り落とされるのです。身体表現の訓練を積んでいる役者ならともかく、繊細な楽器である歌手の肉体の安全を軽視した演出といわざるを得ません。
今回のプロダクションは、ウィーン国立歌劇場との共同制作で、今年の秋にはウィーンでも上演される予定とか。保守的で目の肥えたウィーンの観客は、どんな反応を示すことになりますやら。
指揮は、本来であれば「東京のオペラの森」のプロデューサーである小澤征爾が振る予定でしたが、病気のため本拠地ウィーンを含めて当面休演するとのことで、フランス人のフィリップ・オーギャンが招かれました。彼は奇しくも、1997年に私が始めてラード・アタネッリを聴いたスカラ座の《マクベス》を指揮していた人です。アタネッリがブルソンの裏、オーギャンはムーティの裏、というわけて、双方とも2番手出演の立場でしたが、これが「裏」とはさすがスカラ座は凄い、と舌を巻く立派な演奏でした。今回も熟練した劇場指揮者として、個々の技術は高いものの寄せ集め集団である東京のオペラの森管弦楽団と合唱団をうまく統率して、ヴェルディらしい白熱した音楽を聴かせてくれました。特に合唱は女声がよく声が出ていて迫力ある響きになっていました。イタリア・オペラが得意とは思えない小澤よりも結果的には良かったのかもしれません。
演出が水を差していたとはいえ、演奏は素晴らしいものであったにもかかわらず、当日の観客の反応は比較的おとなしいものでした。本来のオペラ好きよりも、シンフォニーが好きな小澤ファンや、スポンサー関係の招待客が多かったのかも知れません。いつも思うのですが、企業のスポンサーをつける公演では、招待券をバラ撒くよりも、自腹で来る人のためにチケットを安くし、本当のオペラファンをひとりでも多く呼んでもらいたいものです。(今回は、簡単な無料のプログラムとパンフレットが配られ、有料プログラムの価格も1部1000円に抑えていたことは、評価できると思いますが。)せっかくの白熱の演奏に対して観客席が十分に熱狂しないのは、どうも物足りない気がしてなりません。