13日は、イエージからヴェネチアへ移動。途中、ラヴェンナに立ち寄り、有名なモザイクを見て回る。
イタリアの都市は、道が曲がりくねっていて方向感覚を失いやすく、一方通行も多い。しかし、チェントロ(中心部)を表す矢の的のような同心円のマークをたよりに道標をたどっていくと、大抵なんとか町の中心にたどり着ける。ところが、ヴェネチアに入るときに失敗してしまった。
今回、ラヴェンナからは少し内陸部にある高速(アウトストラーダ)に戻らず、そのまま海岸線沿いの一般道を北上してヴェネチアに向かった。ヴェネチア本島への入り口は道路橋一本しかない。混みあう高速出口を迂回して、道路橋の入り口に向かうとき、例によってチェントロマークの矢印に従って走った。途中までは良かったのだが、ある所から、チェントロマークの後ろに船の絵が書いてある看板になった。なんとなくイヤな予感がしたがそのままそちらに行くと、どんどんと寂しい埠頭のような場所に入っていく。
結局、行き着いたのは。ヴェネチア・チェントロ行きの船が出る船着場だった。そこの駐車場に車をとめて、あとは船でどうぞ、というわけである。そうしても良かったのであるが、道を引き返し、道路橋を渡ってローマ広場の駐車場に車を置く。いずれにせよ、車はローマ広場までしか入れないので、サン・マルコ広場近くのホテルに行くには、やはり船を使うしかないのである。
このローマ広場の駐車場でドジをしてしまった。月ぎめ駐車場の入口の方に間違えて車を入れてしまい、慌ててバックしようとした時に無理をしてバンパーをガードレールにひっかけてしまったのだ。翌14日、マルコポーロ空港にあるハーツの営業所に行き、車を替えてもらう。車はBMWからメルセデスになった。どちらも加速がいいが、メルセデスの方がディーゼル・エンジンのわりに音が静かで乗り心地がいい。
ヴェネチアでは、フェニーチェ劇場に行ってみた。夏なので勿論オペラはやっていないが、入場料を払うと中を見学できる。この劇場では、1996年の火災前に、一度だけオペラを観たことがある。再建後訪れるのは今回が初めてである。色々な意見があるようだが、16年前のおぼろげな記憶しかない私には、以前と寸分たがわない様子に見える。入口のブックショップでフェニーチェ公演のDVDやCDを売っていた。再建後毎年実施しているらしいニューイヤーコンサートの今年の指揮者は大野和士だったので、そのDVDを含め、いくつかDVDを購入する。
さて、いよいよヴェローナに入る。今年も友人のつてをたよって、アレーナの近くにあるホテル・アッカデミアに宿をとる。
今回のアレーナ公演で一番危惧されたのが、《セヴィリアの理髪師》である。ロッシーニのオペラ・ブッファを上演するには、2万人収容のアレーナ・ディ・ヴェローナはあまりにも広すぎる、と思ったからだ。この会場で朗々と声を響かせるには、通常リリコ・スピント以上の力強い声が必要である。だからこそ、そうした声が主役の《アイーダ》や《ナブッコ》が毎年のように上演されているのである。
それに対し、装飾歌唱がふんだんに盛り込まれているロッシーニのオペラを歌う歌手たちは、通常、リリコ・レッジェロの軽い声を持ったスペシャリストが多い。彼らは、小ぶりの劇場で、小編成のオケをバックに歌うとき、真価を発揮する。そしてまたこの時期、そうしたカンタンテ・ロッシニアーニの多くはペーザロのロッシーニ音楽祭の方に出演しているはずなのである。
ところが、私のそうした懸念は杞憂であった。題名役のバリトン、レオ・ヌッチは勿論、既にヴェルディ・バリトンとしても実績を積んだ堂々たる声の持ち主だから問題はない。この公演成功の鍵は、テノールとソプラノの主役を歌ったふたりの若手歌手にあると思う。
特にアルマヴィーヴァ伯爵を歌ったテノール、フランチェスコ・メーリ(Francesco Meli)は驚異的といっていい。最初に彼が登場してその声をきいた時には、広い会場を意識して力んで歌っているのかと思った。ところが、どうもそうではないらしい。
もともと大きな声を持っているようなのだ。決して「重い」タイプの声ではないのだが、声量たっぷりでよく通る。そして、その声をコントロールして、アジリタ(装飾歌唱)を鮮やかに駆使してみせる。腹筋を利かせているのだろうが、あまりゴツゴツした感じにはならずに、細かい音の粒ひとつひとつをしっかり際立たせ、音程も正確である。言葉も明晰で聞き取りやすい。勿論、別格の超絶技巧を持つフアン・ディエゴ・フローレスのようなわけにはいかないが、この役を歌いこなすのに十分、というよりも一流の部類にはいるテクニックだと思う。
姿もフローレスよりはずんぐりだが、それほど太ってはおらず、顔もハンサムといってよいだろう。演技もしっかりしていた。アレーナ・ディ・ヴェローナのホームページで経歴を見てみると、1980年ジェノヴァ生まれというから、まだ27歳の若さだが、既に一流歌手として認められているようだ。スカラ座をはじめとして、ヴェネチア、フィレンツェ、ボローニャなど主要歌劇場やペーザロのロッシーニ・フェスティバルでも主役を歌っているうえ、ナタリー・デセイとともに《夢遊病の女》のレコーディングも行っている。
ロジーナは、オリジナルのメッゾではなく、ソプラノ版。こちらも若いアニック・マシス(Annick Massis)という歌手。声そのものは、リリコのよくあるタイプで、メーリほどはびんびんと響かないものの広い会場に十分通る声量はある。
アジリタの切れはメーリ以上にあり、安定感抜群。しかも、すらりと背が高くスタイルもいい。ちょっとシュワルツコプフに似た金髪美人だ。おきゃんで頭のいい積極的な娘、というロジーナのイメージにピッタリの演技と姿で、とてもチャーミングであった。今回の舞台装置には巨大な赤い薔薇がいくつも使われているが、これはロジーナというヒロインの名前を象徴するものと思われる。
また、第2幕の中盤、「嵐の音楽」の手前で、省略されることもあるロジーナの長大なアリアも歌う(逆にフィナーレの伯爵の大アリアは通常どおりカットされている)など、この公演においては、実質的な主役はロジーナである、という扱いだ。その重責に負けないパフォーマンスを彼女は示していた、と思う。パリ音楽院卒、91年にトゥールーズでオペラ・デビューとのことだから、フランス人であろう。
レオ・ヌッチは、公演日によってはナブッコも歌っているが、この日はフィガロとして登場した。1981年のスカラ座初来日公演でこの役を歌って颯爽と日本にデビューした 頃に比べると、声は重くなり、当然のことながら見た目もだいぶ老けたが、老練な歌い方に磨きがかかり、座頭としてこの狂言を回しているという一種の風格すら感じる。
といって、やたらに重々しいわけではなく、あくまでもコメディとしての軽さを失っていない。第一幕登場のシーンの有名なアリア<俺は町の何でも屋>は至芸の域に達しており、観客にも大受け、サービス精神旺盛な彼は、アンコールに応えてくれた。しかし、そこで存在感を十分に見せつけると、後はどちらかというと狂言回しの役に徹し、若いふたりを守り立てる働きをみせていたのである。
バルトロを歌ったブルーノ・デ・シモーネは、ロッシーニおよび古典オペラのスペシャリストらしく、実に巧い演技と高度な歌唱技術をみせた。主役級の中で唯一、会場の大きさに比して声量が少し足りなかったかも知れないが、早口の口舌が命のバリトノ・コミコとしてはやむを得ない。それでも明るめの抜けの良い声なので、後ろの席にもきちんと届いていたと思う。
バジリオはバッソ・プロフォンドのオルリン・アナスタソフ。スラブ系らしいドスの効いた低音が、うまく可笑しみをさそう。
とにかく、溌剌として底抜けに明るく楽しいオペラになったのは、充実した歌手陣にくわえて、指揮と演出の力も大きい。
指揮者はクラウディオ・シモーネ。いかにも好々爺という感じの細身の老人で、燕尾服をきちんと着こなし、けっして派手なしぐさはしないが、そのタクトさばきから出てくる音楽は、実に生き生きとしていて、ロッシーニらしい明るさと躍動感に満ちている。6月末にシドニー・オペラハウスで聴いたリチャード・ボニングの指揮とは、同じ曲とは思えないほどの差がある。素晴らしいお爺ちゃんだ。
そして演出・舞台・衣裳は、ウーゴ・デ・アナ。この当代屈指の気鋭の演出家は、時として、才気が先走りすぎて、空回りすることもあるが、この公演は良かった。ポンネルと同じように喜劇やロマン派以前の作品の方が、彼の本当の持ち味が出るのかも知れない。前述した81年のスカラ来日公演でも記憶に残るジャン・ピエール・ポンネルの名舞台の「呪縛」を脱して、本当に新しい楽しい舞台を創り上げることに成功している。
舞台の中央には、四角く刈り込まれて厚い壁のようになっている可動式の緑の生垣が、中央を囲むように丸く何重にもめぐらせてある。上からみるとおそらく半円状で、円弧が前面に移動したときは客席から中が見えないようになり、反対側になると開口部から中が見える。それが何重かになっているので、開口部は折り重なり、迷路のようになる。その生垣の間を人物が出入りする。
緑の生垣の後方からは、直径が人の身長くらいはある巨大な赤い薔薇の花がいくつも顔をのぞかせ、それに見合った大きさの蝶やトンボの作り物も配されている。劇はセヴィリアという具体的な地名を全く捨象したお伽噺めいた庭園の中で繰り広げられるのだ。人物たちは18世紀末の欧州貴族社会の衣裳を身に着け、本来の登場人物以外に、マイムやダンサーによって演じられる大勢の部外者たちが雰囲気を作り出す。
おそらく後方のスタンド席から俯瞰すると、薔薇園の迷路の中で小人か人形のような人物たちが出たり入ったりする幻想的な舞台は、ある種のテレビゲームを想起させるものであるに違いない。 特にそれを感じさせる場面があった。第1幕で伯爵が求愛の歌を歌い、それに対してロジーナが歌い返す場面。生垣の迷路の中心部で、わずかに覗いた開口部にロジーナは立ち伯爵の歌に耳をかたむけている。そのひとつ外側の通路に女中のベルタがいて床をモップのようなもので拭きながら歩きまわっている。伯爵がいるのは、その生垣のさらに外側下手である。
ベルタは掃除に専念しているような恰好をしながら、不規則な動きで上手の開口部に現れたり、中央奥の開口部に現れたりする。それは、あたかも迷路を不規則に動きまわる「障害物」あるいは「怪物」であり、ゲームの主人公はその怪物に「捕捉」されないようにうまく進まなければならない、といった趣だ。そして、ロジーナが2度目の返歌を歌っている途中でベルタが突如あらわれて彼女を「捕捉」してしまい、ロジーナはキャッと叫んで生垣の奥に消えてしまうのである。
最終幕の大団円では、生垣が回転して大輪の薔薇たちが舞台後方に大きく顔を出して賑やかな花園となり、その後方からはホンモノの花火がポンポンと打ち上げられる。石造りのアレーナならでは、という豪華なフィナーレを満喫できる仕掛けであった。