この日は、木戸夫妻とシルミオネにドライブしよう、と出かけたが、途中の道の渋滞があまりにもひどいので引き返し、市内見物に切り替える。前述したとおり、市内の主要な教会は拝観料を徴収するようになったようで、「五教会共通券」などというのも売っていた。
文化遺産を守るのにはお金がいるものであるから、観光客から金をとるのに反対をするつもりはないが、教会でのお祈りが日常生活の中に溶け込んでいるイタリアの人たちの中に違和感を抱く人も多いのではないか、と思う。我々も、どこの教会にでも自由に入れた時代から、異教徒ではあっても、お参りする気持で拝観し、賽銭箱に小銭をいれ、ろうそくがある場合は一本買い求めてお灯明もあげることにしていたので、入場券を買ってはいるというのは少し寂しい気がしないでもない。
夕刻、ホテルの隣にある書店で、新しく出たバスティアニーニに関する本を買う。辻夫妻が日本語訳を出された彼の伝記(日本語訳題名「君の微笑み」)と同じパオラ・ボアーニョ女史の著作で、バスティアニーニが歌ったオペラの緒役についての記述のほか、彼の舞台への出演を克明に記録したリストがついていて興味深い。これで改めて見てみると、全盛期の彼は本当に一年中休みなく働いている。
あれだけヴェルディ・バリトンとしてまさにうってつけの声と姿を持っていたのだから世界中のオペラハウスから引っ張りだことなるのは無理もないが、それにしても仕事を受けすぎである。結局それが彼の命を縮めたのではないか、と思うと痛ましい。彼の終焉の地、シルミオネに行けなかった日に、この本に出会ったのも、何か因縁を感じる。
夕食は、テアトロ・フィラルモニコの近くにあるヴェローナ唯一の中華「海城酒店」に行く。シンプルに炒めたモヤシや豆腐を、青島ビールや地元の安ワイン「バルドリーノ」で流し込むのも、おつなものだ。中華料理屋が少ないイスタンブールからやって来た木戸夫妻にも喜んでいただけたようだ。
今年の《ナブッコ》の題名役は、レオ・ヌッチとアンブロージョ・マエストリのダブル・キャストで、この日はマエストリが登場予定であったが、急病のため、バリトンはジョヴァンニ・メオーニに変更となった。主催者のサイトによると、メオーニは91年にオペラ・デビュー、ヴェローナでは2002年から歌っているという若手。今年の印刷されたプログラムには5演目のどこにも記載されていないので、完全なアンダースタディと思われる。結果としては、まずまずの出来。急遽登板でやや緊張気味であったが、無難に主役をこなしたといえよう。
バリトンらしい胸声をもち、第3幕幕切れのアリア最後のAsを1オクターブ上であっさりと出すなど、高音にも強いが、やや線が細く、この役に必要な堂々たる存在感や声の威力という点では、やや物足りない。しかし、声量としては、デビューしたての頃のアルベルト・ガザーレとさほど変わりはなく、公演全体の満足感を損なうほどではない。キャリアを積むにしたがって、もっと力強い声に変わっていく可能性はあると思う。
アビガイッレは、マリア・グレギーナが先発、スーザン・ネヴェスが中継ぎ、そして8月10日以降はアンドレア・グルーバーというトリプル・キャスト。この日はグルーバー。体型は以前よりほっそりしてきた印象があるが、声の威力やうまさは増している。グレギーナほどのド迫力は望めないにしても、満足すべき力強さがあり、アジリタも切れていた。
ザッカリアを歌ったのはシルヴァーノ・カローリ。昨年のアレーナでは、アモナズロとスカルピアを歌っていたようなので、バスの役は今回が初めてと思われる。何故、わざわざバリトンのカローリを起用するのか、よくわからない。
アレーナでは、いつも若手の活きのいいバスが何人も登場する。ザッカリアは、役のうえでは長老だが、音楽は非常に力強くシンプルで、フィリッポのような深みは必要とされず、堂々たる声の威力で押し切れる性質のものである。むしろ期待の若手にチャンスを与えるのに絶好の役ではないか。
た たしかに、バスの音域で歌うとカローリのあの割れ鐘のような悪声があまり気にならないし、もともと声量そのものは広大なアレーナに十分響くものを持っているので、初めて聴く人なら、ザッカリアというのはあんなものだろう、と思うかもしれない。結構、観客には受けていたようだ。
しかし、本来のバスの深々としてしなやかな響きの声で歌われた時の、ザッカリアの威厳にあふれた輝かしさには程遠いものであった、と思う。もともと、バリトンとしても、あの悪声は私にとっては耐えがたいものがある。何故カローリがいまだに一流の舞台に立ちつづけていることができるのか、謎である。
イズマエーレのジョルジョ・カッシャッリ(Casciarri)は、比較的平凡なリリコ。フェネーナのニーノ・スルグラーゼ(Nino Surguladze)は、メッゾらしい深みはないものの結構力強い声をもっていて、手堅い脇役として実績を積みあげていきそうなタイプの歌手である。
指揮のダニエル・オーレンは、見た目はだいぶ老けたが、連日の登板にもかかわらず、あいかわらずエネルギッシュ。《アイーダ》と《ナブッコ》というヴェローナの看板演目をもう何年も担当して、まさにこの音楽祭の主のような存在になりつつあるが、まさにそれにふさわしい指揮ぶり。今年はこの両演目とも演出がイマイチであるが、それをカバーしてあまりある派手でスペクタクルな音楽を聞かせてくれた。
特に今夜の歌手は全て若手であったが、うまく美質を引き出し、白熱の興奮を引き出していた。第3幕の有名な合唱<行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って>では、例によって、おきまりのアンコールをやってくれたが、特に2回目の演奏で、殆ど指示を出していないようでいながら実に精妙にテンポと強さをコントロールし、鳥肌モノの音楽を引き出した。
演出・装置・衣裳はデニス・クリーフ(Denis Krief)。ドイツ人のような名前だがローマ生まれとのこと。経歴は国際的で、パリの音楽院を出たあとイタリアで演出の修行、現在はドイツやロシアのオペラハウスを中心に活躍しているらしい。舞台装置は全幕をとおしてかわらず、鉄骨をトラス状に組みあげた3層の構造物が舞台中央からやや上手よりにふたつ置いてあり、下手はすこし前下がりになった広い斜面と袖の方に金色のらせん状の構造物。バビロンやエルサレムを暗示するものはいっさい無い抽象的な空間である。
幕開けのシーンでは、鉄骨構造物の各層に書架のように書物が並べてあり、それがナブッコの侵入によって音をたてて崩れ落ちる。第3幕の<行け、わが思いよ」>の合唱シーンでは、人々がふたつの鉄骨構造物の中にすし詰めになって歌うので、いかにも収容所か何かに捕囚となっているように見える、という仕掛けにはなっている。
ナブッコの軍隊はコサックのような恰好をしており、旧ソ連などの共産圏の軍事パレードを思わせる大袈裟な手振り足並で行進してくる。アイデアとしては、面白いところもあるが、しかし、いかんせん、全体に地味で陰鬱な印象であった。