ムソルグスキーの未完(ショスタコビッチが補作)のオペラ《ホヴァーンシチナ》のナマ公演を観るのは、これが3回目。
前2回は、1999年3月にニューヨークのMETで、ホヴァンスキーがオグノヴェンコとブルチュラーゼのダブルキャストだったので2回観てしまった。今回も指揮は同じワレリー・ゲルギエフだが、本場マリインスキー劇場のオケと合唱、おそらくソリストも全てロシア人であるところが興味深く、わざわざこのためにジャカルタから帰国した。
結果としては、この作品がもともと持ついかにもロシア的な暗めで土臭い音色はMET公演でも十分に出ていたので、あまり印象に変わりはない。それだけ、楽器そのものよりもそれを奏でる奏者であるゲルギエフのカリスマ性が凄いということなのだろう。アメリカ人のオケと合唱でも十分にロシア的な匂いを出してしまうのだ。
ただし、今回の歌手陣はMETのようなスターは殆どおらず、若手中心なのだが、それでもMETと印象が変わらないというところが、また凄い。立派な声の持ち主ばかりで、重厚なオーケストラやぶ厚い合唱を向こうにまわして全く不足感はないのだが、やはり指導者がいいから力を出し切っていたのだろう。
セルゲイ・アレクサーシキン(ホヴァーンスキー、B)
ミハイル・キート(ドシフェイ、B)
アレクセイ・ステブリャンコ(ゴリーツィン、T)
オリガ・サヴォーワ(マルファ、MS)
ヴィクトル・チェルノモルツェフ(シャクロヴィートゥイ、Br)
オレグ・バラショフ(アンドレイ、T)
らのソリストは、前述したように皆立派な声の持ち主で、それぞれ好演していたが、中でも、唯一の女声の主役、マルファを歌ったオリガ・サヴォーワが、複雑な性格だが民謡風の素朴なメロディーの歌もこなさなければならない難しいこの役をうまく演じていた。ちょっとコッソットに似た明るい美声の持ち主なので、ともすれば陰鬱になりがちなこの役が生き生きとしたものになった。
ドシフェイのミハイル・キートも深々とした声の響きを生かした重厚な歌い方で、宗教指導者の威厳を出していた。ステブリャンコもテノールとは思えないほど野太い声がこの役にはふさわしい。
そして、主役のひとりといっていい合唱もMETよりは人数が少ないのだが、声、アンサンブルともに素晴らしく、この歴史絵巻のようなオペラの特質を十分に味わうことができたのである。集団でのぶ厚い響きも良いのだが、今回の合唱で特に印象に残ったのは、少人数の男声でアカペラの聖歌風に歌うところの透明なハーモニーや、合唱曲の終わりに余韻を長く残す残響の美しさなど、むしろ繊細な部分での見事な仕上がり具合だ。
とにかく、低くて重い声が中心という私好みの作品であるが、逆に言うと、あまり一般の日本人には受けないのかもしれない。カーテンコールでブラヴォーの声をかけるのは私くらいしかおらず、ちょっと寂しかった。もっと観客が熱狂してもよい、素晴らしい公演だったはずなのだが…。ワーグナーなどよりはずっと親しみやすく退屈しないと思うのは私だけなのか。
ソプラノ・テノールが愛を語らないということのほかに、もうひとつ受けない理由があるとすると、それは、お話の背景というよりも主題そのものといってもいい当時のロシアの歴史的状況が、わかりにくいということがありそうだ。
何しろ皇帝がふたりいて、ひとりは知的障害者、もうひとりは未成年(後に大帝と呼ばれるピョートル)なので、その姉である皇女が摂政をしている、といういかにも不安定な政治状況。そして、歴史的に偉業とされているピョートルの西欧化政策に、作曲者のムソルグスキーは批判的であったという。そこかしこに顔を出す、いかにもロシア土着の匂いがする民謡風のメロディーが、西欧化で失いつつあるものへの作曲者のこだわりなのかも知れない。
このオペラでは、両皇帝と摂政ソフィアは直接舞台には登場せず、ピョートルが進める「改革」にひたひたと圧迫され右往左往しながら没落への道をたどる大貴族たちと、守旧派キリスト教徒たち、それをとりまく兵士や民衆などの庶民の様子が情景的に描かれる。いわば、ピョートルの改革という「歴史」を裏側の敗者の側から描いている絵巻物なのだ。この構図が頭に入っていないと、何が起こっているのかよくわからない、ということになる。
勿論、お話の筋などよくわからなくても鳴っている音楽を楽しむことは十分できるはずなのだが、シンフォニーなどの純音楽なら最初から音楽そのものを楽しめる人たちでも、ひとたび言葉がつけられ、衣装を着たひとびとが演技を始めると、そこで話されていること、劇の展開が気になってしまって、それが頭に入らないと音楽も耳に入ってこない。そういうひとびとがどうも多いのかも知れない。
この作品を観ながら、いつも思うのは、ロシアの政治風土のことだ。例えば、銃兵隊の兵士たちがピョートルの親衛隊が攻めてくるというので不安にかられ、大将に聞いてみようということになるシーン。兵士たちは、司令官のホヴァーンスキーに「父よ」と呼びかけ、ホヴァーンスキーは「息子たちよ」と応える。このように主従関係を親子関係に擬制するのは、主従関係をも契約としてとらえる西洋的なものではなく、東洋的な発想であるように思える。
人間は自分の親を「選ぶ」ことはできない。君主や指導者を親として受け入れるというのはそういうことだ。帝政時代のツァーリも、現代の大統領も、そのような原理に従ってこの広大な大陸国家を統治しているような気がする。
演出:レオニード・バラトフ、装置:フェドール・フェトロフスキー、衣装:タチヤーナ・ノギノワのプロダクションは、奇をてらわないオーソドックスなもの。暗めで渋い色彩はいかにもロシア的ではあるが、あまり才気は感じられず、田舎くさい。
前述のMET公演もエヴァーディング演出、ミン・チョ・リー装置による1985年制作という古いプロダクションだったがもう少し印象的な舞台だった。キーロフといっていた時代から、この劇場の来日公演の舞台はどうも地味でぱっとせず、音楽的なレベルの高さとの釣り合いが悪い。第4幕の終わりに青年皇帝ピョートルが姿をみせたり、最終幕の教会炎上のシーンで中途半端に炎や煙を出して見せるところなども、説明過剰で垢抜けない演出に見えた。