METがオペラ公演を全米や世界各地の映画館や劇場に光フィアイバー回線で配信するMETライヴビューイングを今回初めて、横浜のMMシネマ109で観た。
結論から言うと、劇場中継というよりは、映画の作品を観るようで、通常のオペラ体験とは全く別ものであるように感じた。最初は歌舞伎座や新橋演舞場で上演されたそうだが、会場が一般のシネコンになり、ますますそうした雰囲気になっているのかもしれない。
マリア・グレギーナをはじめとする主役歌手陣、レヴァイン指揮のオケや合唱など、演奏内容も素晴らしいと思わせるものであったが、とにかくスペクタクル映画のような大音響なので、実際の劇場でのアクースティックな響きがどんなものなのか、全くわからない。
カメラワークも、顔の大写しや、通常の舞台ではみられないアングルが多く、とても映画的なのだ。視点がカメラによって限定されてしまうため、舞台全体で何が起こっているのかよくわからないもどかしさは、DVDなどのオペラ映像ではいつも感じることではあるが、今回のように大画面で観ると、歌手の顔がヒゲの1本1本が見えるくらいに大写しになるという違和感は、耐え難いくらいに大きい。幸い歌手たちはアップに耐える表情の演技を行っていたので、映像としてのぎこちなさは殆どないのだが、本来、遠くから観ることが前提のオペラ歌手に、あのような細かい顔の演技を強いるのは、いかがなものであろうか。
有名なブライアン・ラージをはじめとするオペラ映像を手がけるディレクターの多くが、歌手の大写しを多用しすぎるという不満を従来から持っていたが、こうして大画面で観てみると、その感が一層強くなるのだった。
画面転換(カット)が多すぎて、音楽に集中できない、という問題もある。今回特に問題だったのは、第2幕のフィナーレ、宴会中にマクベスがバンコの亡霊を見るシーンだ。
その場にいる他の登場人物たちには見えない血まみれの幻影をマクベスだけが見て錯乱を深めてゆく。主役の聴かせどころであるとともに、演出の見せどころでもある。マクベスが座ろうとした席にバンコがすわっていて、血まみれの青白い顔でこちらを振りかえるところまではいい。その後、カメラはいろいろな角度から執拗にマクベスのアップを取り続け、バンコの亡霊は背後で見え隠れするだけだ。亡霊が現れたり消えたりする様子がよくわからないし、周囲の醒めた群衆と取り乱すマクベスの対比もよく見えない。もっと舞台全体を見せてくれないと、特にこのオペラをはじめて観る人には、何が起こっているのか理解できなかったのではないか、と思う。
幕間の時間に歌ったばかりの主役歌手を呼び止めてインタビューする、というのもちょっと酷な話だ。プロ野球中継でも試合後ならともかく、途中で選手にインタビューするということはない。集中力を妨げることになる。まして、歌手は声が命。おしゃべりというのはその休めたい喉を使うものだ。
ただ、「別物」だと割り切って観る限り、面白いショウであるということはいえよう。特に、オペラ好きにとってみると、旬の一流歌手が登場することが多いMETの最新の舞台を、ほとんど同時のタイミングで観ることができるのは、やはり貴重なチャンスである。舞台裏の様子や歌手のインタビューなども興味深い。
しかし、幕間の番組の中でMET関係者が言っていたような「オペラのファンを広げる」ということが大きな目的であるならば、舞台裏を見せてしまうのは功罪半ばするのではないかと思う。劇場へ足を運んでオペラを観るという体験の魅力は、非日常的、祝祭的なところにある。公演の価値は、舞台の上、プロセニアムの中で上演されているものを客席から観た(聴いた)結果が全てのはずである。その舞台の裏側をやたらに覗かせるのは、ある意味「夢」を壊してしまうという側面もある。
また、3500円という日本での価格設定は、オペラ・ファンにはさほど高いとは思えないレベルだと思うが、ファンを広げるという観点からは、少し高すぎる。
特にシネマ・コンプレックスでやる場合は、他の一般映画との比較になってしまう。この日、客席はガラガラで、50人も入っていなかったのではないだろうか。日本での配給元の松竹としては、上演回数が少ない中で日本語字幕をつけたりするコストを考えるとあのくらいの単価は必要と考えたのだろうが、結果としては興行的に悪循環に陥っているようだ。
思い切ってオペラ・ファン、クラシック・ファンに的を絞り、他のオペラやコンサートの会場でチラシを配るとともに、上映場所もコンサートホールや自治体の多目的ホールにして、もっと音響に配慮した上演を行う方がいいように思う。一方で「普及」を目指すなら、米国で行っているのと同じように、高校で無料上映してしまうというのもいいが、これは松竹がビジネスでやっている以上、無理かもしれない。せめて、格安学生席や子供料金を設定すべきではないだろうか。
《マクベス》公演の中身についての感想に移ろう。
演出のエイドリアン・ノーブルは、英国でシェークスピア劇の演出を手がけてきた人物らしい。インタビューの中で、ヴェルディのシェークスピア解釈は優れたものであるうえ、原作にはない難民の合唱シーンを入れたことも素晴らしい、と言っていた。マクベス夫妻の行為が民衆にダメージ与えたという新しい観点を付け加えたというわけだ。そうした政治や権力の混沌が国民や国家に与える損害という社会的視点を是非とも身近なものとして強調したいがために、時代設定を20世紀に持ってきたのだ、とのことである。
オペラの演出において時代の置き換えを行なうことについて、私はいつも反対ということはないし、特に《マクベス》という普遍的な芝居は、必ずしも11世紀のスコットランドに舞台を限定する必要はなく、抽象化や場所、時代の移し変えも「あり」だと思っている。しかし、ヴェルディが難民の合唱を挿入した背景には、リゾルジメント(イタリア独立運動)時代の聴衆へのサービスという意味があるという周知の事実を、この演出家はあまり勉強していないようだ。現代でもよくある内戦という政治状況に焦点を当てようとすることは、人間の内面の暗黒や混沌、運命に対する無力など、このドラマが時代を超えて表現しようとしているものからは、少し離れてしまうように私には思われる。
また、刺客や兵士などの登場人物は、20世紀なので武器として銃を携えているのだが、実際にバンクォーやマクベスの殺害シーンになると短剣を使う、というのもいかにも不自然であった。
マリア・グレギーナのマクベス夫人は、当代の極めつけといえよう。声の迫力や演技力はもともと申し分ないが、アジリタ歌唱にもだいぶ磨きがかかってきて、危なっかしさがなくなってきた。
ただし、邪悪で野心的な性格を押し通すのではなく、時折夫のマクベスにあわせて不安な表情をさしはさむところがあったのは、いかがなものであろうか。解釈や好みの問題だが、私はもっと冷酷・非情に徹する方が、この役にはふさわしいように思える。
もっともこのような細かい表情を見ることができるのもアップの映像ならではの結果であり、普通の舞台では見過ごしてしまうところかもしれない。意識的な役作りだったのか、本来は優しい性格である歌手の地がはからずも写ってしまったのかは、よくわからない。
マクベスを歌ったのは、ジェリコ・ルチッチ。私は初めて聴く歌手だが、セルビア・モンテネグロ出身で、METの舞台は2シーズン目らしい。ルーマニア出身のバリトン、アレクサンドル・アガケに似た風貌(つまりハンサムではない)で、声のタイプも似ているような気がするが、前述したような音響なので、ナマの声がどのように響くのかは全くわからない。少なくとも演技力はアゲケより数段上で、ソット・ヴォーチェを巧みに使うなど、声のテクニックもありそうだ。
マクダフのディミトリ・ピタス、バンコのジョン・リライアも好演だった。特に、バスのリライアは、最近06年1月MET公演《清教徒》でジョルジョを歌っている映像を観たが、ベッリーニとヴェルディでは歌唱スタイルだけでなく、発声まで完全に変えているようであり、素晴らしい。
レヴァインはヴェルディがそれほど得意ではない、と思っていたが、この作品はいいようだ。音響が大きすぎてわかりにくいが、色彩豊かで、緊張感のある音楽作りをしていたように思う。
このオペラでは、ヴェルディ得意のコンチェルタートが、第1幕と第2幕のフィナーレという2箇所も用意されていて、指揮者の腕の見せ所となる。ところがこのシーン、画面は個々の登場人物のアップを多用し、しかもカットが頻繁に変わるものだから、せっかくレヴァインの棒によって盛り上がっていくソリスト・合唱・オケ全体の壮大な音楽の流れが視覚的につかみづらくなってしまっていたのが惜しまれる。
第3幕のバレーシーンが省略されていたのも残念だ。ここは、ヴェルディが作ったバレー音楽の中でも最もすぐれたものが聴ける箇所であり、レベルの高い振付師やダンサーを容易に調達できるニューヨークならでは、というバレーシーンを観たいところであった。