出張の合間の日曜、ベルリンでオペラを観たので報告します。
ベルリンには常設のオペラ・ハウスが3つあり、今回行ったのは、旧西ベルリン側のビスマルク通りにあるドイッチェ・オパー・ベルリン。有名なウンター・リンデン通りにあるシュターツ・オパー(国立歌劇場、通称リンデン・オパー)が東側になってしまったため戦後建設されたもので、欧州の伝統の優雅な馬蹄形の劇場ではなく、そっけない近代的な建物ですが、演奏レベルは高いといわれています。今回観た《カヴァレリア・ルスティカーナ》と《パリアッチ(道化師)》も、かなりハイレベルの公演で、十分に楽しめるものでした。
2本とも、
指揮:レナート・パルンボ
演出:デヴィッド・パウントニー
装置・衣装:ロバート・インネス・ホプキンズ
《カヴァレリア》のキャストは、
サントゥッツァ:イルディコ・コムロージ
トゥリドゥ:リチャード・リーチ
ルチア:ライアンヌ・キーガン
アルフィオ:ジョヴァンニ・メオーニ
ローラ:ニコーレ・ピッコロミーニ
名前を見る限り、ドイツ系の歌手はひとりもいなかったようです。リチャード・リーチがさすがで、他の歌手と比べて声がひとまわり大きくびんびんよく響き、歌いまわしもうまいものでした。
コムロージも深みのある声には力があり、悪くはなかったのですが、歌い方が淡白で、ヴェリズモのどぎつい感情表現が不足。<マンマも知るとおり…ノ>ではもっと泣きを入れてほしかったし、トリドゥとのやりとりではもっと激しい言葉を投げつけてほしかった。アルフィオのメオーニだけが、少し弱かった。
《パリアッチ》の歌手は、
カニオ:フランコ・ファリーナ
ネッダ:マヌエラ・ウール(Uhl)
トニオ:ラド・アタネーリ
ベッペ:ヨーゼプ・カン(Kang)
シルヴィオ:サイモン・ポーリー
こちらも国際色豊かですが、ウールはドイツ人かも知れません。カンは明らかに東洋系の顔立ちでした。
こちらは、主役級のレベルが揃っていて、《カヴァレリア》以上に楽しめました。オテッロなども持ち役にするファリーナの声の強さは申し分なく、有名な<衣装をつけろ>や劇中劇で逆上するところなどの表現も迫力があり、聴きごたえありました。ウールもこの役にあったリリコの声で、なかなかの美人。
そして、アタネーリは、日本ではまだ登場回数が少ないのですが、よく通る強い声で、私が10年くらい前から注目しているバリトン。<プローロゴ(前口上)>の終わりにあるラのフラットを胸声のままでしっかりと出していました。ベッペのカンは後半の劇中劇でアレッキーノのセレナーデを宙吊りで歌わされていましたが、動じることなく滑らかなテノーレ・レッジェロの美声を響かせてくれました。
演出は、少し変わっていて、劇中劇がある《パリアッチ》の「入れ子構造」をさらに前半の《カヴァレリア》を含めて全体に展開しているという趣向。
《カヴァレリア》の幕があくと舞台奥にはコンクリートの橋脚が2本たち、上に道路橋がかかっており、下手(左手)奥から橋脚の間を通って舞台正面に向かって傾斜した舗装道路が降りてきています。舞台下手手前、橋の下にルチアが酒を売る屋台が置かれ、人物の服装や登場する車、などの様子は1950年代くらいを思い起こさせます。教会の姿は見当たらず、復活祭の雰囲気やお祈りのシーンをどうするのかと思っていたら、村人たちが飾り立てたキリストやマリアの像を載せた輿をいくつも担いできて路上に置く、というやり方。
馬車屋のアルフィオは、馬車の代わりに軽トラックにのって現れます。時代の置きかえはまあいいとして、村人たちが集まる場所なのだから、教会がある広場がいちばんふさわしかろうと思われるのですが、橋の下という設定はよくわからない。
無粋で醜いコンクリートの橋脚に、素朴な農村に闖入した「近代化」を象徴させているのかも知れないのですが、それがオペラの内容とどう関係があるのか。とにかく橋の上と下という2重構造にして舞台を立体的に作りたかった、というだけの「思い付き」にしか見えません。幕切れでは、「トゥリドゥさんが殺された」という叫び声があがると、その橋の上にトゥリドゥの死体(もちろん人形)をかついだ男たちが現れ、橋の下の道路にその死体を投げ落とし、ルチア母さんが駆け寄り死骸に取りすがって泣くシーンで幕となります。
さて、休憩が終わって次の《パリアッチ》の幕が開くと、前述の「入れ子構造」というのが明らかになります。その舞台は《カヴァレリア》の幕切れのシーンのままで、コンクリート橋の下の路上でルチアが息子の死体にとりすがって泣いています。そこへ、トニオがあらわれて<プローロゴ(前口上)>を歌いはじめると、周りでは大道具方が《カヴァレリア》の装置をどんどん片付けてしまうのです。
つまり、前の《カヴァレリア》公演はまさに芝居であったということを見せるわけです。しかも、トニオが「芝居の中で語られる言葉や涙は、皆、もちろん嘘っぱちには決まっていますが、それでもなにがしかの真実も含まれているもので…ノ」という内容の前口上を、つくり物の亡骸にとりすがって泣き続けるルチアを見下ろしながら歌うのですから、妙に説得力を持って聞こえる、という仕掛けです。これは面白い、と思いました。とりすがって泣く遺体が人形であることが観客にはばればれである、という状況をわざと作り出したいがために、前幕の舞台装置に橋を作りそこから死体を落っことす演出をしたのか、とも思えるわけでした。
《パリアッチ》の方でも、主人公たちは自動車に乗ってあらわれますが、これが黒塗りの高級セダンで、カニオやネッダはりゅうとしたドレスにサングラス、おびただしい数のヴィトン風のトランクを持たせています。しがない旅芸人というよりもセレブの俳優を気取って田舎の連中を驚かそうという魂胆が見えるようないでたちです。
面白いのはシルヴィオの扱いで、幕開きでトニオが前口上を歌う間に道具方が舞台装置を動かしたりしているときから現れて、舞台のそででなにやらその作業を監督するようなそぶりを見せるなど、最初は、舞台監督か狂言回しの役の青年なのか、と思わせます。
その後、舞台上の人物たちとは、つかず離れずで、出たりはいったり。やがてネッダと2重唱を歌いはじめるので、はじめて彼がシルヴィオであることがわかるのですが、それはネッダ役の女優が、芝居とは別に、演出助手の青年と愛を語り合っているかのようにも見えます。もともと、彼についてはそうした劇の内にいるのか外にいるのか曖昧な二重性を持たせる意図があるのでしょう。
こうした意図がさらに鮮明になるのは、幕切れの劇中劇の中でカニオが逆上してネッダを刺したあとです。
「助けて、シルヴィオ」というネッダの声をうけて舞台に駆け上がったシルヴィオも刺すと、カニオが「芝居はこれでおしまい」と言います。すると、ネッダはさっさと起き上がって他の一座のメンバーとともに、我々本物の観衆には背を向けて舞台上の観客(村人たち)に向かってカーテンコールの歓呼を受けに行ってしまいます。
あとには、シルヴィオ(あるいは演出助手の青年)が胸を刺された姿勢のままで残され、やがて舞台上にくずおれてこと切れると、フィナーレのオーケストラが鳴り響く中、こちら側の本物の幕が閉じるのです。
カニオ(演出によってはトニオ)の最後のセリフ「La commedia finita. (芝居はこれでおしまい)」をこれほど鮮やかに使ってみせた演出は初めてです。芝居と現実、その虚実の境目にこそパフォーミング・アーツを観る醍醐味があるということを、何重もの「入れ子構造」の仕掛けで見せてくれたデヴィッド・パウントニーという演出家、なかなかのものだ、と思いました。