8月21日の歌舞伎座公演夜の部で、「野田版愛陀姫」を観た。ご存知、ヴェルディの「アイーダ」を野田秀樹が歌舞伎化したもの。オペラ、歌舞伎両方のファンである私としてはどうしても観たくなり、大勢の「野田ファン」参入によりたちまち売り切れ状態となっていたチケットではあるが、伝手を頼ってなんとか入手したものである。
結論からいうと、予想以上に原作に忠実な内容であることに驚いたとともに、なかなか楽しめるお芝居であった、と思う。4月にあの個性的なコンヴィチュニー演出の《アイーダ》を観て、このオペラと浄瑠璃芝居の類似性、共通性を印象づけられていただけに、よけいに興味深いものとなったような気がする。
「予想以上に原作に忠実」と言ったのはお話の筋立てだけではなく、せりふの内容そのものも含めての話。もちろん省略や置き換えも多いが、主要な場面におけるオペラの歌詞の内容はほぼ忠実にせりふ化されている。その忠実ぶりはむしろ過剰なほどで、戦国時代の美濃・斉藤道三と尾張・織田信秀の争いという時代設定にもかかわらず、「祖国のため」とか「国を愛する」といった言葉が、オペラそのままに出てきてしまっているくらいだ。もちろん、そうした言葉が発せられるたびに感じる「違和感」そのものが野田の狙いには含まれているのだろう。
「祖国への愛や忠誠」といった近代的な国家意識というものは、イタリア統一運動の渦中にあったヴェルディの諸作品ではおなじみの概念ではあるが、本来、原作の古代エジプトという時代設定の中においても、日本の戦国時代と同じように「違和感」のある概念であったはずだからである。また、《アイーダ》には普仏戦争に対する「反戦」思想が盛り込まれているとするコンヴィチュニー流解釈なども誘発しようという狙いもあるのかもしれない。アイーダ(愛陀姫)の立場は、「義理と人情の板挟み」という浄瑠璃芝居おなじみの構造で通してしまってもよいところであるのに、敢えてわざわざ「近代国家概念」を示す言葉を出してきたのは、言葉遊びにこだわり、その「異化作用」をうまく利用するのが得意な野田の面目躍如ともいえよう。
なお、原作の歌詞にほぼ忠実なセリフといったが、だからといってそれは生硬い翻訳調の言葉ではなく、歌舞伎役者の口跡をよく勘案した真山青果や長谷川伸ばりの名調子なのだ。「アイーダ」の台本は、ご承知のとおり、スエズ運河開通をきっかけとしてエジプトの太守が発注した作品で、フランスの考古学者オーギュスト・マリエットが考えた原案をもとにデュ・ロークルがまずフランス語台本を作り、それをさらにギスランツォーニがイタリア語にしたものである。ヴェルディの他のオペラ作品のように戯曲や小説の形での「原作」にあたるものがない。しかしながら、こうして、こうして当代一流の歌舞伎役者により、堂々たるセリフ回しでこの物語を聴いてみると、この作品の劇として骨格が非常によく出来ていることに改めて気づかされる。
弱い台本が多いヴェルディのオペラの中ではむしろ、シェークスピア原作の《マクベス》、《オテッロ》、《ファルスタッフ》に次ぐ、優秀な台本であったといえるかも知れない。
音楽の方も、セリフほどには忠実に場面に即した使われ方がされるわけではないものの、<清きアイーダ>や<凱旋行進曲>などオペラ《アイーダ》の名曲が随所に登場する。ただし、面白いのは、最終幕、若いふたりが生き埋めで死を迎えるシーンに、マーラーの交響曲第5番第4楽章のいわゆる<アダージェット>が使われていたことだ。
この場面、もともとのオペラが、この世では結ばれ得ぬ男女が死出の旅路につくという、まさに浄瑠璃心中物の「道行」と同じ構造を持っている。ヴェルディの音楽もそれに合わせて十分に美しいのだが、敢えてマーラーを持ってきたのは、このロマンティックで耽美的なメロディーそのものがこのシーンには奇妙によく合っているうえ、あまりにも有名なあのヴィスコンティの《ヴェニスに死す》を想起させることにより複雑な効果が生まれることを狙っているのだろう。男同士で演じられる歌舞伎の恋愛シーンに対する一抹の諧謔なども含まれているとみるのは、穿ちすぎだろうか。
音楽の担当は、田中傳左衛門(十三世)(能の大鼓方人間国宝亀井忠雄が父、歌舞伎囃子方人間国宝十一世田中傳左衛門が母方祖父という邦楽一家のサラブレッド三兄弟の次男)。通常の下座音楽の邦楽器にバイオリンとトランペットを加えた編成。
さて、「野田版」はどのような設定かというと、エジプトの王女アムネリスにあたる役が、美濃国領主斎藤道三(彌十郎)の娘濃姫(勘三郎)となり、その侍女、実は尾張国領主織田信秀(三津五郎)の娘愛陀姫(七之助)がアイーダ、そしてラダメスは道三の家臣木村駄目助左衛門(橋之助)という具合。
配役面で唯一の大きな改変点は、オペラでは第一バス歌手が歌う祭司長のランフィスの役を、いかさま祈祷師の荏原(扇雀)と細毛(福助)というコミカルなふたり組にしたところ。なお、荏原は江原啓之、細毛は細木数子を連想させるという意味でも大いに胡散臭い。
幕があがると美濃の稲葉山城下でこのふたりがあやしげなご託宣により民衆に壺を売りつける場面から始まる。道三の家臣多々木斬蔵(「タタッキルゾウ」という言葉遊び)がやってきて彼らを呼びとめ、占いに凝っている主君道三が、隣国尾張から侵攻してきた織田の軍勢を迎え撃つ総大将を選ぶために、近頃城下で評判の祈祷師である彼らを召し出すという。そこに濃姫が駕籠に乗って登場。祈祷師たちに、自分が思いを寄せる若い武将木村駄目助左衛門を総大将とするように神託を下せ、と命令する。
オペラにはないこのシーンで始まるので、芝居はそのままドタバタ喜劇で進行するのかと思いきや、次のシーンからは上述したように、オペラの進行にほぼ忠実に沿ったものになる。美濃軍の総大将はご神託で選ばれると聞いた駄目助左衛門が、もし自分がその大将に選ばれたなら手柄を立てて思いを寄せる愛陀と結ばれたい、というまさにアリア<清きアイーダ>の歌詞をそのままセリフにした思いを述べる。そこにやってきた濃姫、愛陀とのやりとりも、まさに緊張感を孕んだアムネリス、アイーダ、ラダメスの三角関係そのもの。
ただし、総大将指名の場面だけは笑えるものだ。責任をとりたくない祈祷師たちが、はっきりと木村の名前を出さず、玉虫色のあいまいなご託宣にしようと苦し紛れに「ら」「だ」「め」「す」と言ってしまう。ラダメスなんて名前は日本人にはない、わけがわからん、と一同騒然となるが、そのとき多々木が「いや、待てよ。木村駄目助左衛門の名前の中には、ラダメスの4文字が含まれているではないか」と言い出し、神意は駄目助左衛門を指すのだろう、ということになって彼がめでたく総大将に任命される。
一同が「勝ちて帰れ」と叫ぶと、思わずそれに同調してしまった愛陀が「恋する人が勝って帰るということは、親兄弟や祖国が負けるということを意味する。私はなんと罪深いことを言ってしまったの。」というアイーダのアリア<勝ちて帰れ>の内容と全く同じモノローグをうつのである。
なお、原作のオペラでもヴェルディは題名を《アムネリス》にすることも考えたといわれるくらいに恋敵の王女の役が重要であるが、そのセリフや性格をほぼ忠実に踏襲している野田版においてもおのずから濃姫の役がキーロールとなる。歌舞伎座筋書に掲載されているコメントによると、座頭の勘三郎は当初別の役を演じる予定であったところ、台本を読んで濃姫をやりたいと思ったのだそうである(当初予定の役が何であったかは書かれていないが、駄目助左衛門か、あるいは細毛であろうか)。
三人の主役のうち、アイーダとラダメスは、祖国への義務との葛藤はあるものの比較的単純に愛に殉じる方向に一直線に突っ走るだけであるのに対し、アムネリスは、恋する思い、誇り、疑念、勝利の優越感、嫉妬、そして自分の嫉妬心から恋する人を死に追いやってしまったという絶望的な悔恨へと複雑で振幅の大きい感情に揺れ動く。この芝居の濃姫には、そのうえさらに仇敵織田家の嫡男信長との政略結婚を強要されるという追い討ちがかけられるのだ。
いつもの歌舞伎の舞台では、シリアスな役(たとえば佐野次郎左衛門や早野勘平)でもどこかコミカルな味が出てしまう勘三郎であるが、この舞台では、青白い白粉を塗りたくってか顔色の悪さを強調したメイクにより、どちらかというと不気味なトリックスター的な役作りで、複雑なキャラクターを熱演してみせた。連日の立ち役も兼ねる三部連投で、声がやや荒れていたのが残念である。
コンヴィチュニー演出の《アイーダ》では、ラダメスに象のぬいぐるみを持たせるなど、彼の直情径行で単純な性格を徹底的に矮小化してみせる。
もともとヴェルディが描くラダメスの音楽には、そうした面があることは確かなので、駄目助左衛門というネーミングからすると、野田版においても彼は徹底的に駄目男として描かれるのではないか、と思っていた。ところが、橋之助演じる駄目助左衛門は、なかなか凛々しく格好いい若武者ぶりで、これならふたりの姫が取り合いをするのも無理はない、という感じなのだ(ただし、凱旋の場で駄目助左衛門が透明ビニール製の象に乗って登場するなど、「茶化し」を全く忘れているわけではない)。
橋之助は同じ夜の部公演前半の《紅葉狩り》で勘太郎の更科姫を相手にこれも格好いい貴公子、平維茂を演じているので、そのイメージを引きずっている面もあるのかもしれないが、とにかく大真面目の二枚目を演じきる。このため、芝居は随所に喜劇の味をまぶしながらも、基本は主役の3人がしごくまともに恋の三角関係で悩む大悲劇として進行するのである。
この芝居独自のキャラクターであった祈祷師たち、とくに細毛役の福助がよかった。あまり歌舞伎めかしくなく、コミカルなセリフを地声でしゃべるところが妙にオバサンぽいかと思えば、神託でその場の一同を圧伏しようという時にはかなり野太い声を張ったりして、普段、赤姫を演じる時のような作為的に甲高いファルセットとは別人のように自然で生き生きとしていた。歌舞伎のヒロインでは腰高で無防備に見える立ち姿も、こうした役柄では違和感がない。
タイトルロールの七之助は、腰元お軽といった風情の美しい娘ぶりで好演ではあったが、個性的な先輩役者たちの中では、やや印象が「軽く」なることは否めない。
とにかく、この芝居を観てから、オペラを観れば、内容がよく理解できることは請け合いだ。しかしながら、本来の野田演劇のことはよく知らないのだが、疾走する言葉遊びの軽快なテンポが売りだとすると、予想外にも原作並みの重厚さを見せたこの舞台、野田ファンの目にはどう映ったのであろうか。聞いてみたい気がする。
「研辰の討たれ」、「鼠小僧」と、いかにも人間的なケチくさい野郎を笑いのめす路線でやってきた野田秀樹、中村勘三郎のコンビが、この第三作では何を目指したのか? 歌舞伎、オペラの大仰なグランドロマンやペクタクル性を徹底的に茶化すというわけではなく、けっこうマジメに主人公の心の葛藤や美しい死に様を描いてみせ、最後はしんみりした味わいを見せて終わるかと見えた、その時。地下牢の床に折り重なってたおれた愛陀と駄目助左衛門の体から、ふたつの風船があらわれ、フワフワと舞台上方にむかって上っていき、場内には漣のように笑いがひろがっていった。
最後の最後に「...なんちゃって!」と肩透かしを食わせてみせる意図であったのかどうか...。