「イル・トロヴァトーレ」
2月28日(土)13:00~16:10
レオノーラ:ソンドラ・ラドワノフスキ
ルーナ伯爵:ディミトリ・フヴォロストフスキー
マンリーコ:マルセロ・アルバレス
アズチェーナ:ドローラ・ザジック
フェランド:クヮンチュル・ユーン
イネス:マリア・ジフチャク
ルイス:エドゥアルド・ヴァルデス
指揮:ジャナンドレア・ノゼダ
演出:デヴィッド・マクヴィカー
装置:チャールズ・エドワーズ
衣装:ビリギッテ・ライフェンシュトゥエル
照明:ジェニファー・ティプトン
振付:リアー・ハウスマン
今回、わざわざニューヨークまで飛んだのは、この公演を観たかったことが一番大きい動機です。私が最も好きなオペラのひとつで、キャストも素晴らしい。特にフヴォロストフスキーのルーナを初めて生で聴くのが楽しみであったわけです。シーズン当初の予定では、マンリーコは、サルヴァトーレ・リチトラでした。ところがリチトラがキャンセルとなり、アドリアーナ・ルクヴルールに出る予定だったマルセロ・アルバレスがこちらに回り、アドリアーナの指揮をする予定だったドミンゴが歌う方に回るという玉突きが起きました。持ち前の声のキャラクターからいうとマンリーコにはリチトラの方がふさわしいのですが、リリコのアルバレスがこの重い役にどう挑戦するのか、ということにも興味がありました。
開幕前にマイクを持った主催者が舞台上に現われたので、観客席からは「オー」という悲鳴があがりました。通常このような場合、歌手に故障が出たという悪い知らせがあるからです。ドローラ・ザジックの体調がよくない、ということを告げるものでしたが、代役を紹介するわけではなく、彼女がそのまま歌うようです。うまくいかなかったらごめんなさい、という趣旨なのでしょうが、結果としてザジックは最後まで歌い切り、内容も悪くないものでした。もともとコッソットに似てメッゾにしては高音部が明るいタイプで、第2幕の出だしのソロはいつもよりもさらに軽い感じがしましたが、低音は十分にドスが効いており、劇が進行するにつれて調子を取り戻していたような気がします。無用な心配をさせたアナウンスは何だったのか、という感じでした。
ラドワノフスキのレオノーラは、2004年夏のヴェローナでも聴いており、この役に合う暗めの強い声とたくみな弱声の使い方に感心したものですが、今回もその評価にかわりはありませんでした。リリコ・スピントとしては低音の強さが今ひとつですが、広いMETでも十分に響き渡る声、様式感の確かな歌い回しなど、一級品です。「r」の発音がきついので東欧出身かと思っていましたが、アメリカ・イリノイの出身だそうです。考えてみれば、ロシア人であれば女性の名前はラドワノフスカヤになるはずです。
さて、お目当てのフヴォロストフスキーは、とにかく出てくるだけで拍手が起きるほどまず姿が格好いい。品のある暗みがかった美声も女性ファンにはたまらない魅力があるはずです。
若い頃は、エットレ・バスティアニーニの影響が顕著でしたが、最近は、彼自身の個性を生かした歌い方になってきています。第2幕第2場のアリア<君の微笑み>では、胸声をフルに響かせるのではなく、少し頭声に抜き気味の柔らかい発声でレガートを強調し、持ち前の長大なブレスを生かしてなめらかで途切れのないカンタンテな旋律線を歌いあげていました。もちろん柔らかい発声といっても男らしいバリトンの響きは生かされていますが、バスティアニーニの暗い情念の輝きが光を放つ歌い方とは違った、よりロマンティックな表現であったような気がします。
第1幕幕切れの3重唱や、第2幕幕切れのコンチェルタートでは、燃え上がる怒りのエネルギーが少し足りない気がしましたが、これは彼の歌い方というよりも、指揮者の責任かもしれません。
この日のノゼダの指揮には、ヴェルディ、特にこの作品の特徴である強烈な熱気というものがあまり感じられませんでした。この作品が持つ「最後のベル・カント・オペラ」という側面の美しいカンタービレを歌いあげる点は十分だったのですが、もうひとつの特徴である「強靭な声の競演による劇的な興奮」という点では、実力あるソリストが揃ったわりには、少々不満が残るもどかしさがあったのです。ザジックが声は出ているもののやはり本調子ではないのかアンサンブルでの乗りが悪かったということや、マンリーコを歌うには少し声が軽いアルバレスへの配慮ということも影響しているのかもしれません。
さて、そのアルバレスです。結果としては、同じようなテノーレ・リリコであるアラーニャが歌った2006年ボローニャ歌劇場来日公演《トロヴァトーレ》のマンリーコよりは成功していたといえます。
特に、第3幕第2場のアリアでは、前半のカヴァティーナで持ち前のリリックな美声と歌い回しのうまさを生かして情感あふれる恋の歌を歌いあげたのは予想できたのですが、後半のドラマティックな<見よ、あの恐ろしき火を>も意外に健闘していました。あの重い声の歌手にとってはむつかしい特徴的な十六分音符の速い音の上下を、実に鋭く歯切れよく敏捷に歌いきることによって、劇的な戦慄をうまく表現していたのです。最後のハイCも“Allヘarmi”の“mi”の母音まできちんと発音して長くのばしてきめていました。絶対音感がないのでなんともいえませんが、おそらく原調のハ長調のままで歌っていたような気がします。
しかしながら、全体を通してみると、やはりアンサンブルの場面では、どうしても声の軽さというものが出てしまうところがあり、前述したノゼダの指揮ぶりと相俟って、やや熱気と興奮という点で多少のもの足りなさが残る結果だったかもしれません。
フェランドを歌った韓国出身のクァンチュル・ユンはバス歌手としては小柄ですがこの役には不足のない声で、好演だったと思います。同じような体格の日本人の低音歌手でここまで歌える人は残念ながら今は見当たらないような気がします。
今シーズンからの新演出。スコットランド出身のマクヴィカー、イングランド出身のエドワーズという英国コンビは、回り舞台を使って場面転換が多いこの芝居をうまく進行させていましたが、美術そのものは内戦状態のスペインが舞台とはいえ暗く荒廃したイメージが強すぎて、美しく絢爛たるメロディーがあふれる音楽にはあまり合っていないように感じます。
人物の衣装は19世紀初めあたりに時代を置き換えているようですが、これは違和感がありません。バレーシーンがないのに振付師を起用しているのは、群衆の動きを生き生きとしたものにする狙いだそうですが、あまり成功しているようには思えませんでした。ただし、アンヴィル・コーラスでの実際にハンマーを振り下ろして音を出す場面は、何人ものハンマーの動きの組み合わせが緻密に計算されていてなかなか見ごたえがありました。通常の演出では、実際にアンヴィル(鉄床)を叩いて音を出すのは小さなハンマーだけですが、この演出では何組もの大きなハンマーを振り下ろす筋肉マンが出てくるので迫力がありました。
場面転換が早いのも善し悪しというところがあります。この公演では、幕間の休憩は第2幕と第3幕の間だけで、第3幕から第4幕へは休憩なしで進行するのですが、回り舞台であっという間に次の場面になるため、この間に戦いがあってマンリーコが囚われの身になった、という時間の経過が全く感じられない結果になってしまいました。また最後の牢獄のシーンは、アンヴィルコーラスが歌われるジプシーのキャンプの装置をそのまま使い回し、鉄床はないにしても、鍛冶屋の炉のようなところに、マンリーコとアズチェーナが鎖でつながれているのは、あまりにも無理がある設定でした。