アイーダ:ヴィオレッタ・ウルマーナ
アムネリス:エカテリーナ・グバノヴァ
ラダメス:ヨハン・ボータ
エジプト王:マルコ・スポッティ
ランフィス:ジョルジョ・ジュゼッピーニ
アモナズロ:ホアン・ポンス
使者:アントネッロ・チェロン
巫女:サエ・キュン・リム
プリンパル(バレー):サブリナ・ブラッツォ
アンドレア・ヴォルピンテスタ
指揮:ダニエル・バレンポイム
演出・装置:フランコ・ゼッフィレッリ
衣裳:マウリツィオ・ミレノッティ
振付:ウラジーミル・ワシーリエフ
バレンボイムの指揮は精緻で美しいものの、ほとばしるような熱気やギラギラとした緊張感など、スカラの「ヴェルディ」に私が期待したものが十分に感じられないもどかしさが感じられる公演ではあった。これまでのスカラ来日公演でアバド、クライバー、ムーティらが聴かせてくれたヴェルディにはあって、バレンボイムのそれにはないものが確かにあるように感じられる。歌手陣が小粒になったという影響もあるかもしれない。しかし、1か月前にヴェローナで聴いたダニエル・オーレン指揮の《アイーダ》もキャストのレベルは同等であったが、はるかにスリリングで興奮させてくれるものだった。
そうはいっても、良いところもたくさんある。例えば、前奏曲や第3幕冒頭の弦の響きの美しさは天上的であったし、最終幕のアイーダとラダメスの2重唱からフィナーレに至る部分のアンサンブルは実に見事で感動的だった。総体としてバレンボイムは、ゼッフィレッリの演出とはやや矛盾するのだが、スペクタクル性よりも愛による魂の救済を強調する、コンヴィチュニー演出的な解釈を目指していたのかもしれない。
歌手の中では、題名役のウルマーナが際立っていた。彼女は2000年9月のスカラ来日公演《レクイエム(ヴェルディ)》ではメッゾ・ソプラノを歌っていた。それも非常によい演奏だったが、今回はソプラノとしての高音の伸び、安定性も申し分なく、持ち前の中音域の力強さも保っていて、アイーダに求められる資質を完全に満たしているリリコ・スピントであると思う。第2幕凱旋の場の大アンサンブルを突き抜ける強靭な声の直進性もあるとともに、第3幕のナイルの岸辺での詠唱や最終幕フィナーレの2重唱における柔軟でコントロールの効いた弱声の使い方などもなかなかうまいものであった。
アムネリスは、予定ではルチアーナ・ディンティーノが歌うことになっていたが、来日後に体調を崩したということで、この日はロシア出身のエカテリーナ・クバノヴァが代役に立った。2005年パリでブランゲーネ役によりオペラ本格デビュー、06年の東京オペラの森公演《レクイエム(ヴェルディ)》でソリストとして来日、バイエルンの08/09シーズンにアムネリスでデビュー、来日直前の7月に行われたスカラ座テル・アビブ公演でもアムネリスを歌ったということであるから、それなりの実績はある若手メッゾではあるらしい。高音は美声でそこそこ響きもしっかりしている。しかしながら、今回ダブルでアムネリスを歌うことになっている同じロシア出身のアンナ・スミルノワにもいえることなのだが、メッゾ・ソプラノにとって決定的に重要な中低音域があまり響かない。これでは、メッゾ出身のウルマーナとの声質の対比が鮮明でないだけでなく、権高な王女としてアイーダに対峙する凄味が全く感じられないのである。 ディンティーノも、私は今まで生で聴いたことがあるのはミラノと東京でのプレツィオジッラ役だけだが、それほど低音のドスが効くタイプではない。このオペラにおけるアムネリスの重要性をスカラのプロデューサーがどれだけわかっているのか、首をかしげたくなる。ボロディナやジャチコーワが無理だとしても、ロシアにはまだまだ強い低音を持った若手女声歌手がいくらでもいそうなものである。
南アフリア出身のヨハン・ボータは、1965年生まれとのことだからすでに中堅。私はニューヨーク駐在中の1997年に《パリアッチ》のカニオで彼がMETデビューするのを聴いているが、あまり強い印象は残っていない。あの広い劇場でカニオをやれるだけの声は持っていることは確かで、今回も<清きアイーダ>の滑り出しは好調で、広いNHKホールで、力強く輝かしい声を十分に響かせていた。ところが、好調であるがゆえに色気が出たのであろうか、それともいつも彼はそのように歌っているのか、最後の<un trono vicino al sol!>を楽譜どおりにピアニッシモではいったところ声がかすれはじめ、最後のB(シのフラット)に上げたところで声が完全に裏返ってしまい、いったん息をついで、そのままファルセットで歌ってしまったのである。
それまで、大きな拍手喝采を浴びせようと身構えていた聴衆は、冷水を浴びせられたように息をのみ、凍りついてしまった。テノールというのはこれだから怖い。私はこうした事故を何回も目撃している。しかし、ボータは別に風邪をひいていたわけではなさそうで、その後は何事もなく、むしろ快調に声を飛ばし続けていたので、最後のカーテンコールでは惜しみない拍手喝采を得ることができた。その調子からみると、あの<un trono vicino al sol!>も通常誰もがやるように、フル・ヴォイスで押し切ってしまえば全然問題なかったのだろうと思う。つまり4回転ジャンプに挑戦して転倒したようなものなので、(内心悔しだろうが)本人もケロっとしていられたのだろう、と思う。
アモナズロのホアン・ポンスは、いつものように「声量はあるが、それがどうした」という感じのおよそ味わいのない歌唱であるうえ、演技においても、第3幕幕切れでアムネリスを刺そうとしてラダメスに止められ逃げる場面で、全く走ろうともせず、のたのたと歩いていくというやる気のなさを見せた。
どうしてこの人にいつまでも第一線のヴェルディのバリトン・ロールの役がつくのかよくわからない。1カ月前にヴェローナで、アンブロージョ・マエストリの声も歌唱スタイルも圧倒的に格上のアモナズロを聴いたばかりなので、よけいにその感が強い。マエストリとまではいかないにしても、イタリア人でポンスよりマシで、しかもギャラだって安いバリトンはいくらでもいるはずなのである。スカラの人選は疑問である。 バス陣は悪くなく、特にマルコ・スポッティは深々とした響きのよい低音で存在感があった。ジュゼッピーニも第一声は立派なのだが、響きの持続性という点ではスポッティに負けていたような気がする。
ゼッフィレッリの舞台は期待どおりの絢爛豪華で美しいもの。例によって、バレリーナが演じる巫女を重視する演出で、3人の主人公の運命を繰る霊的なものを象徴する。プログラム記載のゼッフィレッリの弁によれば、「アイーダの愛の力の前には神々でさえ無力であり、膝を屈しなければならないことになる」というのがラスト・シーンの意味するところである。そして「ヴェルディは最後に、最も偉大な、最も力強い無敵の神とは愛にほかならないことを、私たちに告げているかのようである」ともいう。
私には(たぶん)キリスト教徒であるゼッフィレッリがこのような多神教的な解釈をしてみせるところが面白い。この古代エジプトという多神教的セッティングのオペラが何の違和感もなく受け入れられているイタリアという国はやはり、一神教を偽装しながらマリア崇拝や聖人崇拝という形でグレコ・ローマン的多神教の基盤をたくみに取り入れているカトリックの本家である、ということがよくわかるからだ。