ドニゼッティの生地ベルガモの歌劇場来日公演です。もうひとつの公演は《愛の妙薬》なので、どちらかひとつに行くとすれば、本来はそちらを選ぶのが普通かもしれません。しかし、私は作曲家としてヴェルディの方が好きであるうえ、デヴィーアとランカトーレというプリマ・ドンナの格を考えても、やはりこちら(椿姫)を選択することになりました。
結果としては、全ての点で平均点以上の公演ではあったと思います。人口15万の地方都市のオペラハウスとしては、健闘といっていいでしょう。ご当地に行ってみればわかりますがベルガモの街、特に丘の上にあるチッタ・アルタ(上の街)は、そこへ登るフニコラーレ(ケーブルカー)も含めて、なかなか個性的で風情にあふれたところです。しかし、オーケストラの音色などは、ドニゼッティと同時代のライバル、ベッリーニの生地カターニアの歌劇場ほどの個性は感じられません。ミラノから20kmそこそこの大都市圏内ということもあり、それは仕方のないことかもしれません。
マリエッラ・デヴィーアのヴィオレッタを聴くのは、2004年8月のヴェローナ以来2度目。公演プログラムのインタビュー記事の中で彼女自身が、この役に必要な声の重さという点で自信がないため1995年にこのオペラに出演するまで長い間迷った、と語っています。
第1幕で華麗なコロラトゥーラを聴かせ、第3幕ではドラマティックな表現力も必要、というこの役は、本来マリア・カラスのようなソプラノ・ドランマーティコ・ダジリタという希少な声質のために書かれている、といわれています。しかし、世界中で最もよく上演されているオペラのひとつといっていい人気作品ですから、実際には普通のリリコやリリコ・レッジェロの歌手によって定常的に歌われているのが現実です。そうした現実的な「常識」からいえば、ベルカント・オペラの名手である彼女に出演依頼が殺到するのは無理もないわけですが、一方でこの作品をよく理解しているがゆえに出演することをためらったというのはいかにも彼女らしい良心的な態度をいえましょう。
そして、ご本人が自覚しているとおり、やはり第3幕では声の力が足りないことは否めませんが、04年のヴェローナ公演では、それを補う表現力、演技力で印象的な舞台をみせてくれました。ただしそれは、グレアム・ヴィックの非凡な演出の効果も大きかったのかもしれません。
今回のパオロ・パニッツァの演出も悪くはないのですが、ヴィックのような大きなインパクトを持っていないぶん、ちょっと苦しかったという感じがあります。そして、何よりも、デヴィーアの売り物であるアジリタ技巧の切れが今回はあまり感じられず、肝心の第1幕の大アリアの感銘が薄かったということがあります。
若手指揮者ブルーノ・チンクェグラーニとの呼吸も最初のうちはあまりうまく合っていませんでした。もともと彼女の調子が悪かったのか、歌い手にとっては危なっかしい円環やベッドへの乗り降りがある演出が気に入らなかったのか、幕あきからしばらくは彼女の歌がオケよりも遅れるところが目立ち、特に「乾杯の歌」では彼女の歌い出しのところでオケが一瞬止まりそうになってひやりとしました。
アルフレードを歌ったアントーニオ・ガンディアは、スペインのアリカンテ(ヴァレンシア州)出身のテノール。2000年にマドリード王立劇場でデビューしたというから、まだかなりの若手です。のびやかなテノーレ・リリコらしい美声ですが、途中で声がふるえて割れかけるところがあるなど、少し不安定な印象があります。第2幕冒頭のアリアは可もなく不可もなく、といったところですが、後半のカバレッタはもう少し力強さがあっていいし、それがないのであるならば、最後のCはオクターブ上げてみせるといった芸当がほしいところでした。
ジョルジョ・ジェルモンのジュゼッペ・アルトマーレもまだ比較的若そうなバリトンです。本格的なヴェルディ・バリトンを歌うには声が軽いものの、この役では手堅くまとめていたという印象です。他の主役もそれほど声量がある方ではないのでバランスはとれており、演技も含めて悪くなかったといえるでしょう。
なお、この公演では、指揮者の意思なのかマネジメントの方針なのかわかりませんが、主役3人のアリア全てについて、カヴァティーナとカバレッタが繰り返しも含めてほとんど省略なしで演奏されたため、2回の休憩を含む上演時間は3時間たっぷりかかりました。今回のキャストのレベルでなにもここまでやる必要があったかどうかは疑問です。特に第2幕第1場の終わりにあるジェルモンのアリア後半のカバレッタは、以前(名バリトンがひしめいていた時代)には慣習的にカットされるのが当たり前だったのに、この公演だけでなく、なぜか最近は律義に演奏することが多くなりました。原典主義も結構ですが、オペラは生きた興行です。お客が最も楽しめる形で上演することを目指すべきだと思います。
パオロ・パニッツァ演出、イタロ・グラッシ美術のプロダクションは、視覚的にはなかなか美しく、時代設定を変えることによる違和感は少なかったと思います。ただし、プログラムのインタビュー記事では20世紀初めのベル・エポックに時代設定を移しているということですが、私には、舞台美術、衣装はむしろクライスラー・ビルや旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)のイメージ、つまりアール・デコの時代(1920年代)を感じさせるものであるように思われました。
最近の演出は、時代をずらすとしても、作曲当時に設定するのが流行りですが、このオペラの場合はもともとの設定が19世紀中ごろ、つまり作曲当時と同時代ですから、その手法はとれません。むしろ、同時代性ということにこだわるのであれば、前述のグレアム・ヴィック演出のように思い切って「現代」に設定すべきでしょう。20世紀初頭という中途半端な時代にずらず意味はよくわかりません。あえていうなら、登場人物の服装が燕尾服やイブニング・ドレスの方が安上がりで使いまわしがきく、ということなのかもしれません。