2009年を振り返って、私にとって強い印象(といってもマイナスの印象)を残したのは、9月に行われたスカラ座来日公演に対する失望感です。オペラ好きの仲間の中には、歌手の陣容が発表された時から「あまり期待しない」「今回は行かない」という人もいましたが、それでも、イタリア・オペラ最高峰の歌劇場が、ヴェルディの傑作群の中でも特にスケールの大きな代表的二作品を上演するのですから、少なくともオーケストラと合唱が大いに盛り上げてくれるはず。ところが、それが不発に終わった、と私は感じています。ヴェルディ・ファンの皆様のなかには同じように感じられた方も多いのでは、と思い、筆をとりました。
私が2009年になってからナマで聴いたヴェルディのオペラは上の表のとおりです。
いずれも、ソリストは当代一流であり、演目も私が特に好きな傑作ばかりです。
これらの公演から得た私の満足感の順に並べてみると、2と5がほぼ同格で最高、次に1、その次が4、最後が3ということになりました。オーケストラや合唱団の実力からいうと格上であるはずのスカラやMETが新国立やヴェローナの後塵を拝する結果となったことは私自身にとっても意外なことでした。
もちろん、今年のスカラの来日公演も、それなりに楽しめるものではあったのですが、これまでの来日公演で聴いたヴェルディ演奏と比べると「何かが違う」という印象がありました。歌手が小粒で、非イタリア人が多かったということもあるかもしれませんが、それは、上記の表にある他の公演でも条件は同じです。違いは指揮者にあるのではないか、というのが、今回私が述べてみたい仮説です。
1の《イル・トロヴァトーレ》は、ディミートリ・フヴォロストフスキーのルーナ伯爵が聴きたくて、わざわざニューヨークまで出かけました。ソンドラ・ラドワノスキのレオノーラも以前ヴェローナで聴いて最高水準であることがわかっています。当初リチトラが予定されていたマンリーコをマルセロ・アルヴァレスが歌うのも現地では大きな話題でした。
結果としてアルヴァレスは、やはり少し声が軽いという印象はあったものの、同じような声質のアラーニャが歌った2006年ボローニャ来日公演のマンリーコよりはかなり良く、第3幕第2場のアリア後半のドラマティックな<見よ、あの恐ろしき火を>も意外に健闘しました。あの重い声の歌手にとってはむつかしい特徴的な十六分音符の速い音の上下を、実に鋭く歯切れよく敏捷に歌いきることによって、劇的な戦慄をうまく表現していたのです。最後のハイCも“Allヘarmi”の“mi”の母音まできちんと発音して長くのばしてきめていました。
お目当てのディミートリは、とにかく出てくるだけで拍手が起きるほどまず姿が格好いい。品のある暗みがかった美声も女性ファンにはたまらない魅力があるはずです。若い頃は、バスティアニーニの影響が顕著でしたが、最近は、彼自身の個性を生かした歌い方になってきています。第2幕第2場のアリア<君の微笑み>では、胸声をフルに響かせるのではなく、少し頭声に抜き気味の柔らかい発声でレガートを強調し、持ち前の長大なブレスを生かしてなめらかで途切れのないカンタンテな旋律線を歌いあげていました。もちろん柔らかい発声といっても男らしいバリトンの響きは生かされていますが、バスティアニーニの暗い情念の輝きが光を放つ歌い方とは違った、よりロマンティックな表現であったような気がします。
このように、歌手陣は申し分のないキャスティングでした。ところが、この日のノゼダの指揮には、この作品の特徴である登場人物たちの暗い情念のぶつかり合いが放つ強烈な熱気というものがあまり感じられませんでした。この作品のもうひとつの側面「最後のベル・カント・オペラ」としての美しいカンタービレを歌いあげる点は十分でした。しかし、典型的なベル・カント・オペラとは明らかに違う「強靭な声による劇的表現」という点では、それを十分に成し遂げうるソリストが揃ったわりには、少々不満が残るもどかしさがあったのです。
2の《アイーダ》は、私ども夫婦が病みつきになっている(今回で8回目の巡礼です)ヴェローナの野外公演。当夜の題名役は、私としては初めて聴く中国人ソプラノのフイ・ヘー(Hui He)。中国語ではHeの発音は「ヘー」よりも「フー」に近いのですが、場内アナウンスで「ヘー」と呼んでいたのでここでもそのように表記します。リリコ・スピントの強い声を持っており、過去に同じ場所、役で聴いたフィオレンツァ・チェドリンスにひけをとらない力と輝きを持っていると思いました。高音のコントロールにすこし不安があるものの、歌いまわしもなかなか上手で、オーレンが細かく指示を出していることもあって巧みなフレージングでヴェルディのスタイルを出していました。
その他、充実した声の持ち主がそろったソリストたちの中でも一頭地を抜いていたのがバリトンのマエストリ。巨体に似合った朗々たる声でアイーダを叱咤する第3幕は圧巻でした。スカラ来日公演で同じアモナズロを歌ったポンスなどは足元にも及びません。アムネリスはそのスカラ来日公演にも登場したアンナ・スミルノワ。中高音で張るところは非常に強い声でよく通るので、悪くはないのですが、肝心の低音域があまり豊かではなく、アイーダとの声の対比がはっきりしませんでした。
とにかく例によってオーレンが飛んだり跳ねたりしてぐいぐいと引っ張るので、全体として非常にめりはりの効いたレベルの高い演奏となり、ヴェルディの力強い音楽を十分に楽しむことができました。広い会場であるがゆえにコントラストを強調している面もあるとは思えるものの、声もオーケストラも輝かしく、立ちのぼるような熱気が感じられるのです。
これに比べると、3の《アイーダ》におけるバレンボイムの指揮は精緻で美しいものの、ほとばしるような熱気やギラギラとした緊張感など、スカラの「ヴェルディ」に私が期待したものが十分に感じられないもどかしさが感じられる公演でした。これまでのスカラ来日公演でアバド、クライバー、ムーティらが聴かせてくれたヴェルディにはあって、バレンボイムのそれにはないものが確かにあるように感じられます。そうはいっても、良いところもたくさんあります。例えば、前奏曲や第3幕冒頭の弦の響きの美しさは天上的であったし、最終幕のアイーダとラダメスの2重唱からフィナーレに至る部分のアンサンブルは実に見事で感動的でした。総体としてバレンボイムは、スペクタクル性よりも愛による魂の救済を強調する、コンヴィチュニー演出的な解釈を目指していたのかもしれません。これは、豪華絢爛たるゼッフィレッリの舞台とは矛盾するいきかたであるところにも、違和感が漂いました。
歌手陣ではアイーダのヴィオレッタ・ウルマーナがよかったものの、肝心のアムネリスのエカテリーナ・クバノヴァが、低音が響かないので凄味がなく、メッゾ出身のウルマーナとの声の対比もはっきりしないものでした。しかし、これはヴェローナでのスミルノワも同様。緊迫感の違いが出たのはやはり指揮の差であるような気がします。
4の《ドン・カルロ》は、ソリストの粒がそろっていて聴きごたえのある公演でした。その歌手陣の中でもひと際存在感があったのがエーボリを歌ったドローラ・ザジック。最近ひざを悪くしているらしく立ち居振る舞いは緩慢ですが、声の迫力はさすが。メゾにしては明るい声ですが華やかな力があり低音もよく響きます。第3幕第2場のアリア<呪われしわが美貌>は、最高音のCisもびしっと決め、久しぶりに鳥肌が立つようなスリリングな声を聴く喜びを感じることができました。全盛期に比べると少し声や表現力に衰えてきたかな、という印象を持っていた最近の彼女ですが、今回は調子がよく、90年代にMETで聴いた時と変わらないものでした。エリザベッタのミカエラ・カロージもよかったです。私は04年と07年のヴェローナで彼女が《アイーダ》の題名役を好演するのを聴いています。つまり、今回ダブルキャストを組んでいるバルバラ・フリットリよりも強い声のソプラノなわけで、あらためてこうして聴いてみると、エリザベッタという役はアイーダを歌えるスピント系の歌手が合っているという感を強くしました。低音がきちんと響くので、王妃の威厳と内心の苦悩というものをヴェルディの音楽が表現していることがよくわかります。フィリッポのルネ・パーペも、まるでドイツ・リートを歌うような精緻すぎる声のコントロールと歌唱スタイルには多少の違和感が残るものの、十分な声の威力と表現力で好演していました。
こうした歌手陣の健闘のわりになんとなく迫力不足で不完全燃焼と感じさせる公演であったという印象があります。その原因のひとつには、シュテファン・ブラウンシュヴァイクの演出があったと私は思います。シンプルな白い大理石の枠と黒い背景の舞台装置、そしてその背景に時折フォンテンブローを象徴する緑の森があらわれ、子役によるマイムが演じられるこの演出では、旧教徒世界帝国スペインからの新教徒フランドルの独立という壮大な歴史絵巻のような背景はすべて捨象して、カルロをめぐるエリザベッタ、フィリッポ、エーボリの四角関係、およびカルロとロドリーゴの幼い時からの友情という個人的な人間関係に的をしぼる、という「矮小化」が意図されていたように感じます。
ガッディの音楽作りは、バレンボイムのそれほどにはヴェルディの音楽を意図的に「矮小化」するものではありませんが、やはりどちらかというと器楽的に精緻な響きを重視するばかりで劇的な緊張感が乏しいように感じます。主催者NBSのサイトで紹介されている批評の中にこのような記述がありました:「あらゆるパートにわたってこれほど透明かつコンパクトな音楽をスカラ座管弦楽団から聴いたのは稀にみる経験である。オーケストラは、さまざまな音域が均質にほどよく溶け合い、まるで中央ヨーロッパのような音を奏でた。」(「イル・ガッセッティーノ」マリオ・メッシニス)。これは誉め言葉なのでしょうか?ヴェルディの音楽を「透明かつコンパクト」に、「中央ヨーロッパ(ドイツ)のような音」で奏でるということが?
別に行われたスカラ座管弦楽団・合唱団の特別演奏会でも、ガッディ指揮の《ナブッコ》や《オテッロ》の合唱シーンには、ヴェルディ特有の力強さやエネルギーというものが足りない感じがしました。なにかが違う、という気がします。
5の《オテッロ》では、幕開きの嵐の音楽が爆発するところから聴き手はヴェルディの世界に引き込まれます。同じ新国立2008年の《リゴレット》(カッレガーリ指揮)で眠ったような演奏をみせた同じ東京フィルと新国立劇場合唱団か、とわが耳を疑うくらいに、強烈な緊張感に満ちた響きがまさに嵐となって押し寄せてくるのです。リッカルド・フリッツァのテンポは決して煽り立てるようなものではなくむしろこの場面としては遅めの部類かもしれませんが、金管と打楽器を存分に咆哮させて異様なエネルギーの高まりを感じさせてくれます。
まことにシロウトくさい見方でありましょうが、この金管から爆発的な響きを引き出す、というのが、ヴェルディの音楽の魅力を十全に引き出してみせる大指揮者の必要条件であるような気がします。アバド、クライバー、ムーティ、ゲルギエフなどは皆そうでした。それに対して、バレンボイム、ガッティそして昨年スカラ・フィルと来日したチョン・ミュンフンなどはここのところが生ぬるいのです。どうして最近(ムーティを追い出した後)のスカラは、このような、前述のメッシニス氏のいわゆる「透明かつコンパクトで、中央ヨーロッパのような音」を志向する人たちと仕事をしているのだろう、とついグチになってしまいます。ムーティやシャイーでないとしても、このフリッツァやニコラ・ルイゾッティあるいはマルコ・アルミリアートなどエキサイティングなヴェルディを振れる若手イタリア人指揮者がたくさんいるのに、です。
そうした金管のあつかいだけでなく、例えば、第2幕でデズデーモナを島民たちが讃えるシーンであらわれる少年少女合唱団(NHK東京児童合唱団)の声の響かせ方についても、フリッツァはカルロス・クライバーと同じくらいのうまさを見せました。ここでは子供の平べったい発声(いわゆるVoce Bianca)が、大人のアンサンブルやマンドリンの音色との対比で不気味に響くところに特別の妙味があるのであり、それを十分にみせてくれたのです。
とにかく、どちらかというと小粒で万全とはいえないソリスト陣や合唱団・オーケストラを率いてここまで本格的な《オテッロ》を聴かせてくれたのは、もっぱら指揮者の力量によるものでありましょう。私はフリッツァの指揮をナマで聴くのは今回が初めてですが、すでに何回か来日しており、イタリアの若手指揮者の中でも傑出しているという評判は以前から聞いていました。そして私が実際に持った感想は、「若手指揮者の中で」という限定はまったく必要ない、これはホンモノだ、ということです。
私は、どちらかというと「オペラは声だ」と考える伝統的なイタリア・オペラ・ファンであり、普段あまり指揮者のことを気にしないほうでした。しかしながら、今回このように、昨年の公演を振りかえってみると、あらためて指揮者の大切さを感じるとともに、なんだかちょっとヘンだぞ、という流れが起こりつつあるように思われます。イタリア・オペラの総本山で、近頃はやりの言葉でいえば「草食系」のヴェルディ解釈がまかり通っているのではないか、と。
ヴェルディの音楽は、ワインでいえば凝縮感があってこってり重いフル・ボディの赤、たとえばブルネッロ・ディ・モンタルチーノの銘醸品や極上のスーパー・タスカンのようなもので、やっぱり「肉食系」でなければならない、と思うのは私だけでしょうか?